Breaking News
Home » 北海道150年、学芸員にはどう見える? » 亜麻の花揺れる北の大地と亜麻工場【コラムリレー第9回】

亜麻の花揺れる北の大地と亜麻工場【コラムリレー第9回】

初夏の風に揺れる青紫色の無数の花々。ここは石狩郡当別町の亜麻畑。7月上旬、「北海道亜麻まつりin当別」が開催され、会場周辺の畑には観賞用の亜麻が栽培展示されていました。私はここで初めて亜麻畑の光景に出会いました<写真1>。

写真1 北海道亜麻まつり会場の亜麻畑と亜麻の花(平成30年7月8日・当別町)

そもそも亜麻は中東~コーカサス地方原産の植物で、茎から良質な繊維が採取でき、古くは古代エジプトの時代から繊維で織った亜麻布が使われました。亜麻は北海道の気候・風土に適していたため、道内では明治初期から試験導入され、その後亜麻工場の進出とともに、品種改良された産業用の亜麻が各地で栽培されました。初夏には青紫色の亜麻の花が咲き乱れ、晩夏~初秋の収穫期には大量の亜麻茎が野積みされる光景が風物詩として定着し、昭和42年まで当たり前のように見られました<写真2>。

写真2 買い入れ先に野積みされた亜麻茎(昭和30年8月下旬・美瑛町)
*『100年ふるさとびえい』 平成12年 美瑛町郷土史料保存会より引用

北海道の中央部・上川地方南部に位置する富良野市に「麻町」という地名があります。町域には、長屋の公営住宅と三角屋根の2階建分譲住宅が整然と列をなします。町名は亜麻に由来し、亜麻布の原料繊維を生産する製繊工場「帝国製麻株式会社富良野製線所」(名称はその後変遷)が約半世紀にわたって所在しました。工場のほかに大型の倉庫群や従業員の社宅、浴場、神社なども立ち並びました<写真3>。

写真3 帝国製麻株式会社富良野製線所開業記念ハガキ(大正6年10月・旧富良野町)

しかし昭和43年の工場閉鎖後にニュータウンの造成計画が持ち上がり、現在は昭和19年建築の工員用長屋1軒(部分)が残されているだけで、半世紀を経た現在、当時の面影は一切見られません。<写真4>。

写真4 帝国繊維株式会社富良野亜麻工場の旧工員長屋部分(平成30年4月・富良野市春日町)

富良野に亜麻の製繊工場が開業したのは、約100年前の1917年(大正6)のことでした。第一次世界大戦の勃発でヨーロッパでは物資不足となり、北海道からは亜麻や馬鈴薯澱粉、豆類などが高値で輸出されました。終戦後もヨーロッパからの亜麻製品の輸入が途絶えたため、亜麻の作付面積と繊維生産量がうなぎ上りで急増しました。この頃開業した製繊工場は道内で約40工場に及び、零細な工場も含めると85工場が操業するほど活況を呈しました。富良野の製繊工場もこうした時代背景の下に開業し、上川地方では名寄、美瑛などにも工場が設置されて亜麻の栽培面積も激増、道内トップクラスの生産地となりました。

亜麻は衣類や蚊帳、漁網など幅広い用途に使われましたが、特に軍需品としての需要が高く、船の帆布や天幕、ロープ、軍服などに多用されました。そのため北海道の亜麻産業は、開戦と終戦を契機に極端な増産と減産を繰り返し、やがて工場は淘汰されながら、その栽培地は明治末期の石狩・胆振地方を中心とした地域から、大正時代には上川地方などへ拡がり、第二次世界大戦時には十勝や網走地方にも拡大して、戦後もこれらの地方を中心に生産されました<写真5>。こうして亜麻畑が一面に広がる風景が北海道各地で見られるようになったのです。

写真5 帝国繊維株式会社への亜麻の買取・記念撮影
(昭和39年10月・旧富良野町老節布市街地の亜麻倉庫前)

しかし戦後の化学繊維の台頭・普及により、昭和42年を最後に帝国繊維株式会社による農家への亜麻の耕作奨励は打ち切りとなって亜麻畑は忽然と姿を消し、翌年にはすべての工場が閉鎖、台風一過の後のように一掃されてしまいました。私は生粋の道産子ですが、当時はこの世に生を受けていないため、亜麻畑の記憶は欠片もありません。

明治以降、軍需品増産のために増殖するも、一瞬にして消え去った亜麻畑と亜麻工場。北海道のあゆみを思う時、世界情勢や産業の推移、そして人間の欲望がこんなにも故郷の風景を変えてしまうものかと愕然とします。近年、道内では当別町や札幌市北区麻生などで亜麻復興の取り組みが盛んです。かつて多くの道民に愛された亜麻が、自然素材としての風合いの良さや土地の人々の想いでもう一度再評価されて輪が広がり、北海道の次の時代の文化が花開くことを期待したいです。

<富良野市博物館 学芸員 澤田 健>