【コラムリレー08「博物館~資料の裏側」第32回】
今回は、千歳市埋蔵文化財センターの資料のウラ側をご紹介します。
千歳市と言えば、新千歳空港!と思われる方も多いでしょう。
そうです!道内のお土産が一同に会し、映画館や温泉もあって、1か月に1回はどこかのテレビで特集されている、あの「新千歳空港」がある市です!
千歳市は空港がある「空のまち」として有名である一方、「遺跡のまち」でもあるのをご存じでしょうか??
約3万年前の旧石器時代から現代に至るまで、途切れることなく人々が生活してきた痕跡が数多く見つかっています。(令和7年現在360か所 道内4番目の多さ)
これは、
【千歳市が北海道の日本海側と太平洋側を川で移動できるルート上に位置し、昔からたくさんの人・もの・情報が千歳市に入ってきて、絶え間なく人が暮らしてきたから】
というのが、理由の一つです。
つまり、空港ができるずっと前から、千歳市は「交通の要衝」であったことが、残されてきたたくさんの遺跡の調査からわかっています。
そんな新千歳空港から車で25分程の場所にある千歳市埋蔵文化財センターでは、千歳市内の遺跡から出土した逸品を展示しています。
ケースに入っていない展示品も多く、とても近くで土器や石器を観察することができるんですよ。
そんな資料のウラ側をよく見てみると、小さい文字でなにか書かれているのに気づくかもしれません。
この文字はなんだ???
これは「注記(ちゅうき)」と言って、資料が見つかった「遺跡名」や出土した「土層」「遺構(いこう=住居やお墓など地面に掘られた痕跡)」などの情報、いわば資料の出身地が書かれています。
遺物は”どこから”見つかったのか、という情報がとても大事。
例えば、縄文時代中期の破片が住居の床面から見つかれば、その住居は縄文時代中期に使われたものかもしれないと考えられます。
また、調査場所のある一か所から黒曜石の小さな破片がたくさん見つかったら、そこは石器を作っていた場所だったのかもしれないし、お墓の中から土器や玉製品や石棒なんかが出たら、そのお墓に埋葬された人がどのような人だったのかを考えるヒントになります。
時代の手がかりとなる遺物そのものがもつ情報と、遺跡・遺構から「その遺物が出土した」という情報が、考古学ではとっても大事な記録なのです。
例えば、上の土器の一破片には、「IM6 88 ⅡH-11 1521」という文字があります。
ただの暗号のようですが、訳すと「この破片は、イヨマイ6遺跡の1988年の発掘で見つかった縄文時代の層の11号住居出身 破片番号1521」という意味です。
下は、昭和38年にマンホールを作る際に見つかったアイヌの丸木舟の下にある礫たち。
丸木舟を盛りたてるためのモブ的存在に見られがちですが、紛れもない遺物です。
「ⅡB」は千歳市では縄文時代の土層のことを示し、そのうしろに遺跡内での場所を示すグリッド名が書かれています。(礫は、展示の丸木舟とは別の遺跡の別の層から見つかったものです)。

遺跡から見つかった持ち運ぶことのできる資料は「遺物(いぶつ)」と呼ばれます。
遺跡の調査で見つかった遺物は、図面や機械でその場所を記録した後、遺跡名や見つかった日付、出土遺構、遺跡全体での通し番号などの情報を袋やタグに書いて仮保管します。
その後、遺物は水洗いと乾燥をしますが、この時にも、それぞれの遺物が持つ出土場所の情報が無くならないよう、細心の注意を払います。
そして、乾燥が終わると注記作業です。
現場で与えられた情報を、直接遺物に書き込みます。注記は、土器の裏面や石器の目立たない場所で、なおかつ文字が書ける平らで滑らかな場所に書かれます。
1点1点細い筆を使った手書きが主流ですが、現在は技術も進歩し、デジタルで注記してくれる機械もあるとか(遠い目)。
こうして注記を終えた遺物は、そのもの自体に情報を書き残すことができるので、袋やタグを取って破片同士をくっつける接合作業や、分析、実測、写真撮影などに移っていけるのです。


この注記、どこでも大体「遺跡名+調査年(または調査次数)+出土遺構(または出土グリッドや出土層位)+遺物番号」というような、一定のルールで書かれていることが多いように思われます。
遺跡名や出土遺構も、頭文字を取ったアルファベット表記されていることが多いです。
担当者が変わっても遺物の情報を引き継いでいくことが、未来に資料の価値を伝える第一歩と言えるかもしれません。
資料のウラ側にある暗号のような文字列には、発掘調査当時から引き継がれてきた大事な大事な情報が隠されているのでした。
みなさんも、遊びに行った展示施設で注記を見つけたら、なんの情報が隠れているのか読み解いてみてくださいね。
(千歳市埋蔵文化財センター 茅原 明日香)
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