【コラムリレー08「博物館~資料のウラ側」第31回】
北広島市エコミュージアムセンターが所蔵している資料の一つに、『中山久蔵遺蹟録』(以下、『遺蹟録』)という古い冊子があります。
中山久蔵とは、明治初期、道南より北では難しいとされていた米づくりに挑み、明治6年(1873)、現在の北広島市島松の地で初めて米の安定栽培に成功した人物です。明治12年(1879)から明治45年(1912)までの約30年間にわたって、栽培に成功した「赤毛(米の品種)」の種もみなどを全道各地の希望者へ無償で頒布したほか、時には自らも全道各地に農業指導へ赴くなど、寒冷地における稲作の普及に尽力しました。こうした功績により、久蔵は「寒地稲作の祖」などと呼ばれ、北海道稲作史を語る上では欠かせない人物となっています。
この『遺蹟録』は、北海道で開墾をはじめた明治4年(1871)から、亡くなる前年である大正7年(1918)までの、久蔵の経歴や功績がまとめられたものです。普段は写真のような表紙の状態で常設展示室に展示しているため、中の本文を見ることはできません。
一見何の変哲もないこの資料ですが、実は表紙をめくると、『農業篤志中山久蔵翁事績』(以下、『事績』)というまた別のタイトルの表紙が現れます。これはなぜでしょうか? 実はこの資料、後半にも同じく『農業篤志中山久蔵翁事績補遺』(以下、『事績補遺』)という表紙のようなページが出てきます。つまり本冊子は、『事績』と『事績補遺』、二つの別の資料が一冊にまとめられたものなのです。
なぜそうした構造になっているのかというと、明治24(1891)~43年(1910)に作られたと考えられる『事績』と、その後の出来事や功績を追加した『事績補遺』、もともとは別の資料だったこれらを子孫の方が後世において一つの資料として綴じなおし、新たに”中山久蔵遺蹟録”と名付けたのではと推測しています。
このように、個人に関する資料等は、一般的に子孫や関係者が大事に保管されていたものを寄贈いただくことが多いです。一方で、驚くような場所から貴重な資料が発見されることもあります。その例の一つが、北広島市島松地区にある史跡「旧島松駅逓所(きゅうしままつえきていしょ)」の壁の内側です。
今から約40年前となる昭和59年度(1984)から平成2年度(1990)にかけて、旧島松駅逓所は初めての大規模な保存修理を実施しました。その際、駅逓所建物の間仕切壁(建物内の空間を仕切るための壁)などから発見された壁紙の下張りに使用された反故紙の中に、当時の駅逓業務に関する資料が含まれていることが判明しました。
この保存修理工事によって回収された古文書類はすべてが断片であり、その数は330片にのぼります。そのうち島松駅逓所に関する簿書類は100片程度と考えられ、断片であるがために解読できる部分は少ないものの、明治17年(1884)から同20年代の島松駅逓所の業務、経営の実態を垣間見ることのできる貴重な資料であることがわかりました。ちなみに、島松駅逓所はもともと中山久蔵の自宅であった建物であり、久蔵が4代目取扱人(=管理人)を務めていた施設でもあります。そのため、最初にご紹介した『遺蹟録』も、壁の内側から見つかった古文書も、ともに「中山久蔵関係資料群(253点)」として、平成30年(2018)に市の指定文化財となりました。
このように、資料と一口に言っても、子孫が代々大切に守り伝えた末に残ったものもあれば、今回のように工事の最中に偶然見つかるものなど、その由来はさまざまです。そうして残った資料の一つ一つが、数十年、数百年前の過去を現代に伝える貴重な財産であり、私たちもまた、現代の新たな資料とともにそれらを次の百年へ大切に引き継いでいかなければと感じています。
(北広島市エコミュージアムセンター知新の駅 学芸員 吉村 くるみ)
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