今回は礼文島で学芸員として働き始めて2年目の若輩者が担当です。生意気な感想にしばしお付き合いください。多くの人がイメージする学芸員の勤務場所は博物館でしょう。博物館は、昔の貴族や冒険家たちが興味のままに、動植物から民族資料まで、多種多様なものを集めた場所「ヴンダーカンマー(驚異の部屋)」に起源をもつといわれています。学芸員はさしづめ案内人といったところでしょうか。ところで、私は博物館ではなく教育委員会に所属する学芸員で、最も求められていることは開発によって失われてしまう遺跡の発掘調査、もちろん専門は考古学です。今年は10月まで現場で健康的に日焼けをする毎日でしたが、私の勤める礼文町内では、遺跡が大々的に壊される大規模な開発が少ないため、発掘調査が少ないのです。では発掘調査が無い時は何をしているのか、もちろんサボっているわけではありません。
礼文町教育委員会で学芸員が担当する代表的が業務に「文化財」があります。文化財とは土器や石器などの考古資料から、古文書、工芸品等博物館で展示されるようなもの、古墳や遺跡などの史跡、化石や景勝地などの天然記念物、形のない伝統芸能までを含む概念です。そのほかにも図書室、社会教育・生涯学習事業、観光所管部署への協力などなど・・・。これらは、他所ではいくつかの(時には学芸員と程遠い)部署や担当に分かれることもあるでしょう。もちろん学芸員らしく郷土資料館の展示、学校への出前講座、資料の収集なども行います。それも出土品の展示(考古学)に始まり、トドの骨格標本を作る(哺乳類)、明治期入植者の史料や近現代神社文書の調査(文献史)、伝統芸能保存会の支援(民俗)など自然史から人文社会まで多岐にわたっています。これらすべてを(少しづつ)こなさなければいけないのが礼文町の学芸員です。
漠然とした話はこれくらいにして、現在礼文町の学芸員が取り組んでいることを一つ紹介します。礼文町には明治以来、津軽半島からの移民が多く、彼らが持ち込んだ文化が伝わっています。その中でも、津軽凧を起源とする礼文凧は島民に広く知られ、お店などにも飾られているので、観光客でも目にすることができます。一方で、現在礼文凧を作れる人は数えるほど、揚げる人に至っては皆無です。そんな中で先任の学芸員(考古学専攻)は礼文凧を何らかの形で残したい、できれば制作技術を残し、地域の子供たちと作って揚げたいと考え続けています。私もその考えに両手を挙げて賛成したのですが、話を聞いてみるとそれほど簡単では無いようです。なにしろ日々の生業としている人がいるわけで無し、作っていた人を見つけても材料が手に入らない、道具が無い、そうこうしているうちにその人が島を離れてしまう・・・今まさに無くなろうとしている文化を前にして焦るばかりです。まずは出来ることからと、この夏は博物館学実習生に手伝ってもらいながら、これまでに寄贈を受けた礼文凧の整理に着手しました。今後資料館での展示・活用を計画していますが、ゆくゆくは礼文の空に礼文凧が再び揚がることを夢見ています。
礼文凧も本来の専門とは関係ありませんが、ダ・ヴィンチ級の万能を求められるのは、小さな自治体や博物館の学芸員の常かと思います。これは否定的な意味ではなく、むしろ特権と言っていいのではないでしょうか。どれもこれも地域を切り取った一面で、地域に関する知識や情報の集合体、いわば地域(島)という大きなヴンダーカンマーの案内人、それが礼文での「学芸員のお仕事」なのだと考え、誇りを持って日々精進に努めています。
<礼文町教育委員会 髙橋 鵬成>