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北海道の定番土産、木彫り熊【コラムリレー第10回】

木彫り熊といえば、鮭を咥えた姿ですが…

木彫り熊を見ると、北海道を想像する人が多いでしょう。150年以上前からアイヌによって作られ続けてきたイメージがありますが、実は違います。
北海道における木彫り熊のルーツとしては、南部の八雲町と、中央部の旭川市の2つがあります。この両地域では別々のルーツから木彫り熊を作っていきますが、八雲は大正13年から、旭川の始まりも不明確ながら大正以前には遡らないようで、どちらにしても北海道となってから生まれた文化です。

八雲町は明治11年から尾張徳川家の旧家臣達が移住し、現在の役場周辺が市街地になっていきます。時は流れ大正10年、19代当主の徳川義親がヨーロッパへ農村視察を兼ねた旧婚旅行へ行った際、翌年訪れたスイスにて木彫りの熊を含んだ土産品を見かけ、戦後恐慌で生活が苦しい八雲の農民達の冬の副業として、そして趣味を持った豊かな生活にちょうどよいと考え、持ち帰ってきました。
大正13年にはスイスの木彫り熊を手本とした北海道第一号の木彫り熊が作られ、昭和3年には八雲農民美術研究会を組織し、様々な姿の木彫り熊を作りました。

戦前のいろんな八雲の木彫り熊

戦前の販売は旭川市のほか、函館市、札幌市、登別市、小樽市、帯広市、釧路市等と道内各地に広がっており、全国各地にも作品を持って行って宣伝に努め、海外でも販売されました。

こうした努力の結果、昭和7年のアサヒグラフには、「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫熊であるが、旭川近文アイヌも」木彫り熊を盛んに作っていると、旭川でアイヌによる木彫り熊制作が盛んになった記事の導入として使われるほど有名でした。
しかし、戦争が激しくなると、八雲では1人しか熊を彫って販売する人はいなくなり、戦後になってもごく少数の制作者が彫っている状況でした。しかし途切れることなく彫られ続け、独自の彫り方を追求した作者もいます。

自らの彫り方を追求した柴崎重行作の木彫り熊

旭川市においては、大正15年にアイヌの松井梅太郎が彫り始めたこときっかけとして広まったのが定説で、複数の資料からも裏付けされています。最近、松井よりも八雲よりも古くからアイヌが作っていたという説が主張されていますが、きちんとした資料による裏付けは確認できません。
旭川での始まりはもっと検証が必要ですが、初期の木彫り熊をみると、形はサパンペやイクパスイといった儀礼用具に付けられてきた熊の表現に似ており、アイヌ文化における木の取り扱い方をしていて、彫り方のルーツはアイヌ文化といえるでしょう。それが主に本州からやってきた人の好みに合わせて変化していったようです。

戦前と思われる旭川の木彫り熊

旭川の木彫り熊は、昭和10年頃にはアイヌの木彫り熊として有名になります。戦争の影響はあったものの、複数の人が彫り続け、戦後に道内各地に旭川流の彫り方が広がっていきます。というのも、各地に講師として呼ばれたり、夏に観光地に出向いて土産屋の店先でアイヌの民族衣装を着て実演販売を盛んにしたことからのようです。
また、戦後になってから鮭を咥えた姿が大ヒット商品になりますが、いつどこで作られ始めたのかは明確ではなく、客の嗜好にあわせた結果作られたと現時点では考えています。

木を丸彫りした土産としての木彫り熊は、八雲に入った移住者にも、旭川のアイヌにも元々あった文化ではありません。北海道となってから、どちらにとっても外の文化を取り入れて発展させていき、木彫り熊は北海道のアイコンとなりました。今では、鮭を咥えた熊の姿で北海道を表し、それに色を塗ってキャラクターを表現しているレジン製の土産もあります。

レジンできたお土産の熊とか(一部木彫りも混じっています)

木彫り熊と一言でいっても、大量生産品から芸術性の高い作品まで幅広くあり、歴史も地域によって違います。それを少しずつでも明らかにしていければと思います。

(八雲町郷土資料館・木彫り熊資料館 学芸員 大谷茂之)