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ペシ岬と消えたモペシ【コラムリレー第4回】

稚内からフェリーで1時間40分、利尻島の玄関口鴛泊港に到着すると一際目を引く岬が見えてくる。ペシ岬と呼ばれるその岬は、アイヌ語の「シペシ」(大きな崖)に由来する。地元の人たちは、「灯台山」「ゴリラ山」などの愛称で呼ぶことが多い。

空から見た鴛泊港とペシ岬

空から見た鴛泊港とペシ岬

 

ペシ岬

ペシ岬

ペシ岬は、約20万年前にはじまった利尻火山活動の初期に生成された溶岩ドームである。現在では、遊歩道が整備されるなど観光名所の1つとなっており、標高93mのてっぺんからは、利尻山やその裾野に広がる鴛泊一円の景色が望め、日本海に目を向ければ礼文島や宗谷丘陵のパノラマを楽しむことができる。文化遺産も数多く所在し、古くはオホーツク文化期の遺跡や近世の北方警備により命を落とした会津藩士の墓碑、文政年間以降に建立された厳島神社、明治25年に建設された鴛泊灯台がある。

ペシ岬頂上からの展望

ペシ岬頂上からの展望

なかでも岬の先端に建つ鴛泊灯台は、道内初の石造灯台として切石を積み上げた円形の壮麗なものであったという。そして、道内の石造灯台では、後にも先にもこの鴛泊だけであったということが知られている。現在の建物は、昭和28年に改築されたコンクリート造のものである。

初代鴛泊灯台

初代鴛泊灯台

さらに3基ある会津藩士の墓碑は、元々町内のお寺にあったものを地元ロータリークラブの手によって、平成15年に岬の中腹に移設されたもので、文政13年奉納の石鳥居が残る厳島神社とともに利尻の近世史の一端を感じ取ることができる。

会津藩士の墓碑

会津藩士の墓碑

今では多くの観光客や散策で訪れるペシ岬だが、実はもう1つ、人間の手によりその姿を変えられた歴史が存在する。かつては、まるで親子のようにシペシとともに「モペシ」(アイヌ語で小さな崖)と呼ばれる小山があったのだが、残念ながら現在その姿を見ることはできない。その消長は、稚内にある北海道遺産にも認定されている北防波堤ドームとともに語られる。

明治末期のシペシとモペシ(左側の小山)

明治末期のシペシとモペシ(写真中央の小山)

北防波堤ドームは、北海道大学を卒業し、北海道庁技師として稚内築港事務所に赴任してきた土谷実氏が設計したものである。北埠頭が旧樺太航路の発着場として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波のしぶきがかかるのを防ぐ目的で、昭和6年から11年にかけて建設された防波堤である。樺太へと渡る人々でにぎわった頃のシンボルでもあり、古代ローマ建築物を思わせる太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として注目をあびている。

稚内船着場と北防波堤ドーム(昭和24年頃)

稚内船着場と北防波堤ドーム(昭和24年頃)

そして、この北防波堤ドームの建設には、大量の石材を必要とした。そこで白羽の矢が向けられたのが石材豊富な利尻島であった。はじめは、鴛泊近傍の湾内という場所の玉石が使われていたが、それが尽きると、ペシ岬に目が向けられ、2つあった石山のうち小さな方の石山(モペシ)が標的にされた。何年もかけてダイナマイトで破壊された石は、岬の裏からトンネルを通ってトロッコで運ばれ、港から盤船に積み込まれ汽船に曳かれて運ばれた。石材の多くは防波堤の基石に使われたという。

爆破されるモペシ(稚内市教育委員会所蔵)

爆破されるモペシ(稚内市教育委員会所蔵)

 

鴛泊港から運び出される石材(稚内市教育委員会所蔵)

鴛泊港から運び出される石材(稚内市教育委員会所蔵)

 

工事中の北防波堤ドーム(昭和6年、稚内市教育委員会所蔵)

工事中の北防波堤ドーム(昭和6年、稚内市教育委員会所蔵)

いま破壊されたモペシの跡地を訪れると、「山神」という小さな石碑が建てられている。その経緯はよくわかっていないのだが、もしかしたら人間の仕業に対し小さな山の神がおこらないよう鎮めるためにひそかに誰かが建てたのかもしれない。

モペシ跡地にたつ「山神」碑

モペシ跡地にたつ「山神」碑

ペシ岬を取り巻く小さな物語、島の遺産として後世に伝えたい記憶の1つである。

<利尻富士町教育委員会 学芸係長 山谷文人>