「日本で今、大変なことが起きている…。」2011年3月11日の東日本大震災は、一見平和に見えた日本の光景を一変させた。日本観測史上最大のマグニチュード9の大地震は大津波をもたらし、死者・行方不明者は18000人を超えた。あわせて福島第一原子力発電所ではメルトダウンが発生、原発の在り方が多方面で議論されるに至った。海に囲まれ、常に地震や台風の影響が懸念されるに日本にとって、まさに「忘れられない、忘れてはならない」大災害となった。
北海道日高管内新冠町は、昔から地震がとても多い所で、なおかつ台風の時期には河川氾濫の危険性がつきまとっている。私は新冠町に住んで15年になるが、たびたび震度5以上の大きな地震があったり、台風の影響による河川氾濫を目の当たりにしてきた。
私自身が体験した災害で忘れられないのは、2003年(平成15年)の災害だ。この年は埋蔵文化財の発掘調査を行っていた時で、ちょうど調査の真っ最中だった8月に台風が襲来した。たたきつけるような雨が断続的に降り、夜半ごろには川の水が許容量を超えた。町職員でもある私は役場から連絡が入り、班体制を組んで河川の土嚢積みに現場へ向かった。地元の消防団が先立って土嚢積みを行っていたのでそれに加わる。ふと川に目を向けると、暗闇の中で今まで見たこともないような濁流がものすごい勢いで流れている。そのとたん血の気が引き、動かす手足は自分のものでないような感覚にとらわれた。
「だめだー!流されるぞーっ!引き上げろー!!」その声にすぐに車に飛び乗り、逃げることとなったがすでに道路は冠水し、車は半分水に浸かった状態で走らせた。無事避難することができたが、この災害により4名もの尊い命が奪われた。浸水家屋、農業、水産、土木被害も甚大だった。
そのわずか約2ヶ月後、今度は十勝沖地震が発生した。震度6弱を記録し、電柱が多数倒壊するなどの被害があった他、北海道の特別天然記念物に指定されている「新冠泥火山」に噴泥や地割れの現象が見られた。津波の影響を懸念して、沿岸地域はすぐさま避難勧告が発令されたがこの時は大きな津波の到達もなく、犠牲者が出なかったのは幸いだった。
たて続けに起こった大きな自然災害の教訓から、新冠町では河川の堤防強化や防災体制が見直されることとなったが、多くの新冠町民は、町と災害は切っても切れない関係があることを思い知らされた。
町史をはじめとする新冠に関する様々な文献に、「未曾有の大災害」と記されていることに気付く。昭和30年の大水害…。古くから新冠に住む人は災害といえば真っ先に昭和30年の大水害のことを思い出すという。学芸員という職業柄、昔の話をうかがう機会が多々あるが、「水害の年が昭和30年だから…云々~」というように、年数を換算するときにこの水害の年を区切りとして語ることをよく耳にする。新冠の古老にとって、それぐらいこの水害の記憶は深く刻まれていることを感じた。この年からちょうど50年経過した2005年(平成17年)、災害の記憶を風化させてはならないと思い、この水害の聞き取り調査や写真の収集を行い記録集にまとめたり、特別展や講話も併せて行う取組みをした。この災害が語るものとは、はたして何だったのか…。
1955年(昭和30年)7月3日、夜半から強風を伴い降り続いた大雨は、新冠の多い所で一時間に200ミリを越す集中豪雨となった。翌4日早朝には、新冠川が急速に増水。流れ出た土砂や流木が川に巨大な自然ダムをつくり出した。上流で一旦せき止められていた流れは、そのダムの中で力を蓄えていった。そしてそれがついには決壊、鉄砲水!― 大量の土砂を含んだ濁流は猛烈な勢いで、まるで津波のように下流へと向かっていった。ただちに警鐘を打ち鳴らし、住民の避難も始まっていたが、氾濫は予想以上に早かった。山間部を瞬く間に飲み込み、さらに沿岸部の市街地約70%は濁流の景色へと変わっていった。
同日午前11時頃になると水量は最高に達した。加えて新冠川河口に接する太平洋は不運にも干潮を迎え、その作用で川の流速はさらに増したため、家屋や家畜、屋根の上や木にしがみついていた人々は一気に河口に向かって流された。
消防団をはじめとする住民が、流された人を救出すべく河口の鉄橋からロープや醤油樽を投げ込んだ。それにしがみついて何とか助かる人もいたが、鉄橋の橋脚の間の濁流は壮絶の一語につき、巨大な渦に巻き込まれてしまった人もいた。
その後、駐留米軍に要請して救助ヘリが青森県三沢基地から到着した。ヘリからロープを垂らしての救助が始まった。これにより助けられた人はかなりの人数にのぼったが、力尽きてつかまることができず落ちてしまった人もいた。
やがて氾濫した水も徐々に引き始めたものの、この水害による犠牲者は27人にのぼった。家屋や家畜、土木被害も甚大で、道路も寸断されたため復旧は難航を極めたという。「あたり一面水浸し、水が引いても泥だらけで家も流されてしまった」、「地獄のような光景だった」、「流されていく人をただ無念の思いで見るしかなかった」など、当時を知る人の生々しい証言に、今も心の奥底に暗い影を落としていることを感じさせられた。
この水害から数十年が経過し、ともするとあの時のことが忘れさられようとしている頃、新冠町では2003年の水害と大地震に見舞われ、さらに日本全土を震撼させた東日本大震災が発生した。東日本大震災では、地震による大津波といった自然災害の側面だけではなく、原子力発電事故といった人間が造り上げたものと自然災害による関係性が問題視されるようになった。
昭和30年の水害について聞き取り調査をしていると、たびたびこのようなことをおっしゃる方々がけっこう多かった。―「あの水害は天災ではなく、人災だったのだ。」 詳しくお話を聞くと理由はこうだ。
- 新冠は戦後に御料牧場が解放されてから開拓や林業が奥地で盛んになり、大量の森林資源が伐採された。そのため、土が軟弱になったり水の吸収力が奪われたため、降雨によって土砂崩れがしやすくなり、この水害の際にも多くの土砂が川に流れ込んだ。
- かつて奥地で伐採された木材は、新冠川の流れを利用して運搬する流送によって運ばれた。川にはこの木材を貯留する網場(あば)があった。この水害の時は、川の上流から増水した水や土砂が網場や木材によってせき止められた。これがダムを作り出し、やがて破れて鉄砲水となったのだ。
あの水害から半世紀以上経過した今となっては、その根拠を明かすことは難しい。地球という美しい環境の中で、人間は便利で住みよくなるためにあらゆることを行う。だが自然は時として牙をむき、さらに人間がした行為そのものが傷を深くしていることも事実だ。何が最善なのかは私にはわからない。ただ、多くの人が笑顔で暮らせる世の中を願うばかりだ。
〈新冠町郷土資料館 新川 剛生〉
次回は、美幌博物館 町田善康さんの投稿です。ご期待ください!