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一本の電話からつながった北海道の早池峰神楽【コラムリレー07 第6回】

はじめに

それは、一本の電話から始まりました。

「厚沢部町教育委員会の近藤と申しますが、大迫町の外川目村というところでは、現在も神楽が伝承されているんでしょうか」。1990年11月のことです。

厚沢部町教育委員会社会教育主事近藤良信さんから、大迫町(現花巻市)教育委員会学芸員中村良幸さんへあてた電話により、早池峰系の神楽(合石神楽)の一派が大正期に北海道に渡り、それらの道具類が厚沢部町に伝わっていたことが世に知られることとなったのです。中村さんの調査の結果、これまで知られていなかった神楽集団の北海道での活動の様子や、厚沢部町字城丘に残されていた神楽道具類の実態が明らかになったのでした。

厚沢部を離れた神楽道具

2012年11月、長く厚沢部町字城丘の佐藤家に保管されていた神楽道具でしたが、家を守ってこられた方が城丘を離れることとなりました。神楽道具一式は、厚沢部町の民俗調査で縁の深い舟山学芸員を通じて、北海道開拓記念館(現北海道博物館)に寄贈されることとなったのでした。

神楽道具が町を離れるにあたり、2012年11月22日から約2週間の期間で厚沢部町図書館ロビーで「海を渡った神楽展」を開催しました。

再び海を渡った早池峰神楽

さて、話はこれで終わりません。

神楽道具が厚沢部町を離れたという話を聞きつけたのは、100年前に分派した本家早池峰神楽(合石神楽)の伝承者たちでした。彼らは厚沢部町で自分たちの神楽を披露したいと切望し、行政に働きかけたのでした。奇しくも、当時、花巻市役所大迫総合支所の支所長は冒頭に登場した学芸員の中村さんでした。

中村さんは、花巻市の予算を工面し、早池峰神楽メンバーの旅費・宿泊費を捻出し厚沢部町へ派遣していただけるよう手配をされました。さらに公演当日には、司会までも務めていただきました。

一方、厚沢部町側の受け皿となった実行委員会を組織したのが、こちらも冒頭に登場した元社会教育主事の近藤良信さんでした。すでに退職していた近藤さんでしたが、実行委員会の組織や寄付集めを行いました。お二人の努力が実り、2013年6月15日に早池峰神楽厚沢部公演が実現しました。

人をつなげる博物館資料

「資料を核に人がつながる」。学芸員の仕事の価値を社会教育的に評価するならば、このような表現となるでしょう。

神楽資料を核として、海を渡った神楽集団の子孫たちが3世代の時を超え、出会うことができました。その中心にいたのが一人の学芸員と一人の社会教育主事でした。

早池峰神楽厚沢部公演の打ち上げにて 左:近藤良信さん 右:中村良幸さん

資料を発見し、価値を見出した近藤さんと、丹念な研究によりその価値を確かなものにした中村さん。お二人のどちらが欠けても北海道に渡った早池峰神楽が世に知られることはなく、子孫たちが交流する機会が生まれることもなかったでしょう。

二人の先輩の仕事の総仕上げの場に居合わせたことは、同じ学芸員として幸運なことでした。「資料を守り、調べ、人をつなげる核とする」、そのような博物館の営みの結末を目の当たりにすることができました。

筆者はすでに博物館の現場を離れています。しかし、早池峰神楽公演を実現させたお二人もすでに学芸員、社会教育主事の立場ではありませんでした。学芸員、あるいは社会教育主事という仕事は単なる行政上の役職ではなく、一種のメンタリティー、あるいは生き様なのだということを肝に銘じ、これからも厚沢部町の郷土資料を中心に人をつなげる仕事をつづけていきたいと考えています。

<厚沢部町文化遺産調査プロジェクト 石井淳平>