1月28日、オホーツク海沿岸にある網走市で流氷接岸初日を迎えました。毎年この時期は国内外から多くの観光客が流氷を見に訪れます。私自身も毎年この時期は流氷を見るために地元湧別の海岸に足を運び、自然の雄大さや冬の季節感を感じています。今回はそんな流氷と地域の歴史を紹介します。
【流氷による漁業被害】流氷は豊富なプランクトンを育み、資源豊かな漁場をもたらす欠かせない存在である一方、湖口を通じサロマ湖内へ流入するとサロマ湖内の漁業養殖施設を破壊します。最も大きな被害は昭和49年1月のこと。ホタテの養殖施設の約70%が破壊され約23億円もの被害が出ました。近年のサロマ湖漁業は養殖事業が中心のため(漁獲量の約65%がホタテ、10%がカキ。平成25年)施設を流氷被害から防ぐことが必要で、過去、地元漁業者は融雪剤散布やチェンソーによる砕氷、自衛隊による流氷爆破を試みました。しかしどれも思うような効果が得らなかったため、流氷の流入そのものを防ぐための防氷堤「アイスブーム」を整備することになりました。
【養殖施設を守れ!】平成10年に完成したアイスブームは海洋構造物としてはサロマ湖が世界初の例でしたアイスブームは湖口の内側に円弧状に支柱を配し、その支柱間に連ねたフロート(うき)で流氷の侵入を防ぎます。総長は1,430mにもなります。フロートは長さ3m、直径1mの円柱形で、総数は約370個にも及びます。アイスブームの完成以降は養殖施設への被害はありません。
【自然への挑戦!湖口開削】氷被害を生んでしまう今の湖口(第一湖口)は、自然には存在しないものでした。本来の湖口はサロマ湖東部(北見市常呂町トウフツ)にあり、晩秋から初冬の大時化で一時閉塞される季節的なものでした。明治31年頃に始まったサロマ湖の漁業は湖内で行われるものでしたが、三里浜の住民を中心に段々と外海漁業も行うようになり、その際はトウフツを迂回する必要がありました。迂回する時間を省くために船を砂丘越しに運ぶこともありましたが、船底が損傷する問題があったため、地域住民は近くで通年使える湖口を必要とするようになりました。大正14年からは住民15・6人が人力で湖口開削を試みましたが、成功しませんでした。昭和2年からは村営事業となり、昭和4年には1日あたり約80人が9日間続けて開削作業を行いました。それでも水がうまく流れず落胆していたところ、その日の夜の大嵐によって自然流水の力が加わり、念願の湖口開削が叶ったのです。
【環境の変化】湖口開削・アイスブームの建設によって安定的に安全に漁業が行えるようになりましたが、サロマ湖内の水質や生息魚介類、周辺の自然環境の変化が生じました。湖口開削によって海水性を帯びるようになった湖には、ニシン・サンマ・カレイ・コマイなど外海魚介類で沿海性のものが回遊・繁殖するようになりました。周辺の植生では、湖岸で見られる塩生植物のアッケシソウ群落も大きく様変わりしています。
「佐呂間湖鶴沼のアッケシソウ群落」は昭和32年に北海道指定の天然記念物になりましたが、今確認できる範囲や密度は指定当時の3分の1以下と縮小しています。湖口開削との因果関係は確認されていませんが、サロマ湖の水質変化は湖岸の植生に少なからず影響を与えているのではないでしょうか。北海道150年、現代人は北海道の厳しい自然に挑戦しながら現在の暮らしやすさを得ましたが、失っているものもありそうです。アイスブームの歴史を調べる中で、地域の自然環境についても考えさせられました。
<湧別町ふるさと館JRY・郷土館 学芸員 林勇介>
(参考文献)
湧別町1982『湧別町百年史』、登栄床郷土史編集委員会1994『ふるさと登栄床のあゆみ』、北海道開発局網走開発建設部『サロマ湖漁港アイスブーム 流氷への挑戦』