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北海道150年、守り・引き継いだ地域の宝〜蝦夷地の古道・様似山道〜

明けましておめでとうございます。

今回お話をさせていただくのは、北海道様似町にあります江戸時代の道「様似山道」についてです。

様似町は北海道の太平洋沿岸日高管内に位置し、襟裳岬で有名なえりも町の隣町になります。世界ジオパークに認定されており、アポイ岳の特別天然記念物の高山植物群落など自然豊かな当町ですが、昨年、当町の様似山道とえりも町の猿留山道が揃って国の史跡に指定されました。当町では初めての史跡の指定です。

様似山道は、幕末の寛政11(1799)年に江戸幕府によって開削された蝦夷地初の道で、現在でも実際に歩くことができます。

江戸時代に北方警備を目的とした海岸線の迂回路として開削された様似山道ですが、以前は海岸線道路が整備されると次第と使われなくなったと言われていました。しかし、よくよく調べてみると、海岸線道路ができた後の地域の方によって様似山道が利用され、守られていたことがわかりました。

様似山道中腹では明治6(1873)年から明治18(1885)年に、原田安太郎という方が旅籠屋を営み、往来する人々の世話や様似山道の倒木の撤去などを行なっていました。この頃は山道を通行する人も多く、中にはならず者も混ざっており、山道での強盗事件もあったようです。ある時には、原田安太郎さんの息子である嘉七さんが旅籠屋で1人留守番をしていた夜に宿泊者に襲われ、大格闘の末に相手は逃げていき、翌朝逃げていった犯人を捕まえてみると、十勝監獄所を脱走した強盗殺人犯だったということもあったそうです。

 

図1 原田安太郎さんの旅籠屋跡

 

このような事件もあり海岸線の道路もできたことから、原田一家も様似山道を降り、次第と山道の通行人も減っていったようです。

しかし、その後も山道の再整備を行ったり、大正15年には史跡天然記念物の予備調査に様似山道が記されるなど、様似山道が町の文化財として認知されていたことがわかります。また、明治から昭和にかけては電信電話線の作業道としても利用され、戦時中には高台の畑地に行く生活道として使われました。当初は北方警備のために作られた様似山道ですが、時代とともに目的を変えながら多くの人に利用されたことがわかります。

また、様似山道開削時の功労者である斉藤和助さんという方がおり、彼の功績を讃えて和助地蔵が作られました。この和助地蔵では、毎年3月21日に地元住民によって慰霊祭が行われています。高齢化などにより大変な部分もあるそうですが、地域の人の努力によって毎年続けられています。

図2 和助地蔵尊

図3 昭和の頃の和助地蔵祭の様子

このような地元の人たちによって守られてきた様似山道。今年で平成が終わり新しい元号となりますが、地域の人たちみんなで地域の文化財を守り続けていかなきゃなと思います。

(様似町教育委員会 学芸員 髙橋美鈴)