Breaking News
Home » 地域の遺産 » アイヌ伝説が残るいしばい山の地獄穴【コラムリレー第8回】

アイヌ伝説が残るいしばい山の地獄穴【コラムリレー第8回】

カタクリ群落で有名な男山公園。ここがいしばい山だ。上川盆地に突き出た岬地形突哨(トッショウ)山(写真1)の先端部の石灰岩鉱床を指す(写真2)。この石灰岩は札幌神社(現北海道神宮)の宮司を勤めた白野夏雲によって明治22年に発見された。
なぜ宮司が?実は夏雲は開拓使権大主典として物産調査、内務省地理寮では土石類調査を行い、北海道庁でも働いた技師で、調査時に見つけたものと考えられている。
OLYMPUS DIGITAL CAMERA 全景

明治23年夏雲の石灰石の払い下げ願いから、採掘権の所有者はいろいろ変わったが、大正2年に旭川を代表する酒蔵男山酒造株式会社の初代社長山崎與吉が採掘権を取得。山崎石灰礦業所(後の山崎石灰工業株式会社)と言う名で、昭和39年まで石灰岩の採掘を行い、数年前まで生石灰を作る立窯遺構も残っていた(写真3)。だから地元の人たちは、今でも男山公園の辺りを石灰(いしばい)山と呼ぶ。石灰坑道3

この石灰岩はどのように出来たのだろう?研究者の調査では、石灰岩からトリアス紀(2億年以上前)のコノドント(現世のヤツメウナギに近いクリダグナサスの歯)化石が、石灰岩周囲の緑色泥岩からは白亜紀古世(1億4500万年~1億年前)の放散虫(単細胞性海洋性プランクトン)化石が発見されている。
このことから、海中で海洋プレート上の堆積物がはぎ取られ、陸側プレートにくっついた部分の中に、別の場所から地滑りによって取り込まれて出来たと考えられている。石灰岩は、北海道の形成過程を明らかにする「生き証人」とも言えるのだ。

上川アイヌに残る地獄穴の伝説

「むかしむかしふたりのエカシがいた。 ピップのトッショと言う辺りで猟をしていたら、ムジナが洞窟に入っていったので、追いかけ穴の中に入っていった。穴はどんどん狭くなり、やっと這って通れるくらいの狭さになったが、そこを通り越すとまた広くなってやがて明るい所へ出た。

そこには山も川もありムジナや魚も沢山いて、どっさり魚をつるした家々がある、夢のようなとても美しいコタンだった。しかし、コタンの人々にはエカシたちの姿が見えないようだったが、犬が吠えるため「ばけものでも来たらしい」と言われ、魔除けの干し魚の頭を投げつけられた。逃げ帰ろうとすると、いつのまにか着物の裾にたくさんの人間がぶら下っていた。それをとって投げとって投げして、這々の体でようやく穴から外に出た。

穴から出たあと「おれはああいうコタンがすきだ、あそこに住んでみたいものだ」と言ったエカシは死んでしまい、「おれはなんだかきらいなコタンだな」と言ったエカシはいつまでも長生きをした。このエカシたちの話で、この穴があの世に通じている地獄穴であることが分った。アイヌはこの穴のことを、ウェンルパロ(Wen-ru-par 悪い・道・口)とかアフンルパロ(Ahun-ru-par あの世・道・口)と呼び、その後、誰も入る者がいなかった。」

地獄へ通じる穴の正体はもう判っただろうか?そう鍾乳洞だ(写真4)。発見時には鍾乳洞に鍾乳石もあったと、北海日日新聞昭和29年4月28日付には書かれている。現在は鍾乳洞は石灰採掘によってずいぶん壊れ鍾乳石もないが、いくつかの地獄穴は残っている。

ウェンルパロ
 身近な自然の石灰山。そこは学術的に重要な地質・地形および地質事象だけでなく、アイヌの昔話、蝦夷地開拓に関わる重要な人物、地域の重要産業などが様々に絡んだ、地域の重要なジオサイトなのだ。 (北海道教育大旭川校 非常勤講師 斎藤和範)

 

おまけ

夏雲の顕彰碑は北海道神宮に、その魂は円山墓地(札幌市中央区南4条西28丁目)に眠っている。滝川市郷土館には、彼が北海道物産共進会用に石灰盤で使った、発見時の概要を語る三葉の石版画がある。石灰山の鍾乳洞と共にこちらも足を運んでみてはどうでだろう?

IMGP1990 IMGP1996