北海道開拓の黎明期に開拓判官・松本十郎(1839~1916)という人物がいました。十郎は1869年(明治2)開拓判官として着任、後に大判官となり、初期の北海道開拓を牽引しました。気さくで飾らない、公平公正で実直な人柄と評され、アイヌが着用した「アツシ」を愛用したので、「アツシ判官」と呼ばれました。1876年(同9)に開拓使を辞した後、郷里・山形で農業を営み、1916年(大正5)不帰の人となりました。
富良野市博物館には、松本十郎が書き残した報告書『石狩十勝両河紀行』の序文をもとにしたためた書画「石狩河水源探究記行自序」が展示されています。他界する直前に遺した貴重な資料です。
書画は十郎の嫡孫・松本友氏が所蔵していたものです。同氏は札幌農学校に学び富良野町・山部村に所在した北海道大学第八農場の派出所長として、1940年(昭和15)~1965年(同40)に在任しました。1963年(昭和38)、小作農地の解放に伴って第八農場は閉鎖、山形県鶴岡に帰郷します。その際、市内在住の同郷人にこの書画を贈りましたが、1985年(昭和60)そのご家族から当市へご寄贈いただいたのでした。
十郎がこの書画を書き記す少し前のこと、旭川から山形へ帰省した知人が病床に伏しがちな十郎を見舞い、上川地方は今や目覚ましい発展を遂げたと語ります。十郎はこの土産話に今昔の感を覚え、書画をしたためたのでした。書画左下には、「松本十郎」と自ら号した別称「蝦夷骨董」の落款印が認められます。
1875年(明治8)日露間の樺太・千島交換条約締結による樺太アイヌの移住問題をめぐり、当初計画の宗谷から石狩川沿いの対雁へ移住地を変更したことに十郎は憤慨、上司の開拓使長官・黒田清隆と対立します。これを契機に翌年に十郎は開拓使を辞任しますが、直前に1か月に及ぶ上川視察の旅に出かけました。アイヌの案内のもと石狩川の源流部へ至り、十勝から日高方面へ抜け、勇払・千歳を経て札幌へと戻り、志半ばで辞職の決断をする旅となったのでした。書画には、石狩川源流部へ苦労して到達し、付近の頂によじ登って十郎は眼下に拡がる広大な大地を眺望したと綴られます。道中では木の枝を柱とし、蕗の葉を被せた伏屋の簡易小屋を日々の宿としましたが、文章下段にこの小屋が描かれています。
さて十郎が現在の北海道を見ることができたなら、彼はどのような感想を持つでしょうか。書画を見つめながら想いを巡らせてみました。
<富良野市博物館 澤田 健>