【コラムリレー08「博物館〜資料のウラ側」第7回】
厚沢部小学校の歴史を示す貴重な資料が寄贈されました。俄虫小学校(現・厚沢部小学校)が写った古い写真です。
写真の背景に見える山の形から、現在の厚沢部小学校の所在地で撮影されたものと推測されます。
写真の裏には「昭和拾六年六月六日」という注記が見えます。また、左側にうっすらと「大運動会記念」という文字もみえます。撮影年月日とその状況がわかる基調な情報です。
矛盾する地形図
ところが、昭和21年(1946)に発行された国土地理院の5万分の1地形図を確認すると、現在の厚沢部国保病院付近に学校記号が描かれています。大正9年(1920)発行の地形図も同様に、昭和21年地形図と同じ場所に学校記号が描かれていることがわかります。
米軍が撮影した俄虫小学校
これに対し、昭和23年(1948年)に米軍が撮影した航空写真には、現在の厚沢部小学校の場所に、昭和16年の写真に写るものと同じと思われる校舎が確認されます。
このことから、厚沢部小学校はもともと現在の国保病院付近に存在し、ある時期に現在の場所へ移転した可能性が高いと考えられます。しかし、移転時期については資料によって異なる記述があり、これが不可解な点です。
上棟式写真が物語る真相
この問題は、別の資料によって解決されます。昭和11年9月25日に撮影された「俄虫小学校改築上棟式」の記念写真から、厚沢部小学校の校舎は昭和11年に建てられたものであることが判明します(新校舎の共用開始は昭和12年)。写真に写る背後の山の形状も、現在の厚沢部小学校の位置を示しています。したがって、昭和16年に撮影された俄虫小学校の校舎は、この時期に建てられた校舎であると考えられます。
昭和12年生まれで、この校舎で小学生時代を過ごした地域のSさんにお話を聞いたところ、昭和12年に小学校が移転して現在の場所に建てられたと聞かされていた、と話してくれました。
つまり、昭和21年の国土地理院地形図は古い情報のまま発行されてしまったようですが、校舎は昭和21年には現在地に移転していたというのがことの真相だったようです。
地域資料は組み合わされて歴史を語る
写真、地図、そして聞き取り調査を組み合わせることで、俄虫小学校の移転に関する歴史が明らかになりました。博物館に所蔵されている資料は、一つ一つが地域の歴史を解き明かすために重要な役割を果たしています。現在はその価値が明確でなくても、資料を組み合わせることで、これまで見過ごされてきた地域の歴史が浮かび上がることがあります。
複数の資料を通じて俄虫小学校を見直すことで、資料の価値は現在の情報だけで判断されるものではないと実感しました。
(厚沢部町郷土資料館 石井淳平)