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言葉のバリアを越えて~博物館多言語対応の現場から

コラムリレー08「博物館〜資料のウラ側」第8回     

博物館に足を運ぶと、入口の案内板、展示室の解説パネル、フロントやトイレの表示など、あらゆる場所に日本語だけでなく、さまざまな言語で情報が記されていることに気づきます。いまや「多言語対応」は日本の博物館にとって当たり前の風景となりました。しかし、その当たり前の裏側には、見えない無数の手間と葛藤があります。

国立アイヌ民族博物館の入口

 

第一歩、「どの言語に対応するか」

多言語対応は、まず「どの言語に対応すべきか?」という問いから始まります。統計データだけでは判断できないことも多く、展示のテーマや地域の文化的背景に即した言語選定が求められます。

たとえば、国立アイヌ民族博物館では、「アイヌ語」が第一言語として扱われています。翻訳の出発点は日本語ではなく、アイヌ語。この構造自体が、先住民族の文化的尊厳を尊重する現代的な姿勢を表しています。その上で、来館者の多い言語として、英語、中国語、韓国語、タイ語、ロシア語が選ばれ、翻訳作業が進められています。

翻訳ではなく、「文化の橋渡し」

博物館での多言語対応は、ただ翻訳するだけの作業ではありません。言葉の奥にある文化や価値観を、正しく、そして丁寧に伝える大切な役割があります。

私自身は現在、6つの言語にわたる多言語対応のまとめを担当しています。その中でも、英語と中国語については、実際の翻訳作業も行っています。今回はその実例をご紹介しましょう。

中国語の多様性と、表記の工夫

中国語には、「書き言葉」と「話し言葉」、それぞれに異なるシステムがあります。

書き言葉には、簡体字と繁体字という二つの文字体系があり、簡体字は主に中国大陸、東南アジアのシンガポール、インドネシア、マレーシアなどの国々で使われており、繁体字は香港、マカオ、台湾、そして北米など海外の華人コミュニティの地域を中心に用いられています。同じ文字体系でも、地域ごとに語彙や表現に違いがあるのも特徴です。一方、話し言葉としては、「普通話」が広く使われており、中国大陸、台湾やシンガポール華人コミュニティでも比較的スムーズな意思疎通が可能です。ただし、香港やマカオ、マレーシア、アメリカなどの華人コミュニティでは、広東語が主に使われており、普通話との相互理解が難しい場面もあります。

こうした背景を踏まえ、当館では「アイヌ語の中国語表記法」というプロジェクトを立ち上げ、単語の音に基づく漢字表記を試作しました。意味の誤読や誤解を避けるため、中立的で発音しやすい字を選び、簡体字・繁体字の両方の利用者にとって読みやすい表記表を作成。現在は特別展などで使用されています。また、音声ガイドも普通話で制作していますが、将来的には広東語への対応も視野に入れています。

英語で伝えるということ

英語は国際共通語として広く使われていますが、それゆえに表現の選択には特に慎重さが求められます。当館ではアメリカ英語を基本としつつも、固有名詞や精神文化については、単純な意訳ではなく原語を活かす方法をとっています。たとえば、アイヌ民族の神、「カムイ」という言葉は、単に「God」と訳してしまうと、キリスト教的な神を想起させ、アイヌ文化の文脈から外れてしまいます。kamuy (spirit-deities) のようにローマ字表記と説明を併記しています。

私は英語のネイティブスピーカーではないため、翻訳後は必ず外部の英語母語話者によるチェックを行い、さらに内容担当の研究者とクロスチェックを重ねて、できる限り高い精度を保つようにしています。

 国立アイヌ民族博物館キャプションの様子

 

技術が支える未来

AI翻訳や音声ガイド、QRコードを使った多言語表示など、テクノロジーは今や多言語対応の大きな味方です。展示室の片隅に貼られたQRコードを読み込めば、母語で解説が表示されます。映像に合わせて多言語音声が流れるシアターも登場しています。翻訳支援ツールや翻訳メモリ(TM)、AI翻訳などを組み合わせながら、効率と品質の両立を目指しています。

言い回しの工夫や技術の進展を見極めながら、必要に応じて新しい手法を積極的に取り入れていくことも、多言語対応における重要な関心事の一つです。

国立アイヌ民族博物館の翻訳チームで試用している支援ツール画面

それでもなお、文化や精神性の深い部分を正確に伝えるには、人の感性と判断が不可欠です。文化の多様性を伝える博物館だからこそ、言葉の多様性もまた、誠実に扱わなければなりません。言葉の裏側には、いつも物語があります。

私たちは、今日も展示の裏側で静かに作業を続けています。その物語を、誠実に、世界へと手渡すために。目立たない場所に、そっと言葉の橋をかけるように。

(国立アイヌ民族博物館 研究員 劉高力)

当館職員が音声出演している、国立アイヌ民族博物館の多言語対応バーチャル博物館ページもぜひご覧ください~!

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