十勝の防風林と畑作の大地。羊が草をはむ札幌羊ケ丘の草原。パッチワークが広がる美瑛の丘陵地。競走馬が走り回る日高の牧場。乳牛が草をはむ広々した根釧原野。季節の花が咲き乱れるオホーツクの海浜草原。石狩低地帯の広大な水田地帯と石狩川。私達が描く北海道らしい風景ではないでしょうか?
江戸末期から明治当初、蝦夷御用御雇や蝦夷開拓御用掛・開拓判官として蝦夷地探検をした松浦武四郎はどのような風景を見たのでしょう。
「本道至る処山林ならざるはなし」 開拓史事業報告(1885)
私達が北海道らしいと思っている風景は、いつどのように出来上がってきたのでしょう?
徳川幕府の直接支配が及んでなかった蝦夷地は、戊辰戦争や箱館戦争で旧幕臣の榎本武揚「蝦夷共和国」軍が倒された後、明治政府により日本に組込まれます。明治政府は明治2(1869)年7月8日北海道開拓使を設置。
明治3(1870)年5月開拓使次官に元薩摩藩士の黒田清隆が就任。明治4(1871)年7月14日の廃藩置県後、各府省・寺院・藩士族による北海道の分領支配から、開拓使が一手に開拓政策を手中にし「開拓使10年計画」を推進。開拓使本庁を札幌に置き、明治5年から10か年間にわたる拓殖費の支出を1000万円と決定し執行。黒田は自らが海外に赴き、開拓の方向性を決めるため米国連邦農務局長ホーレス・ケプロンを開拓顧問に招聘します。
ケプロンは、気候を調べ開拓計画を立案。移民政策のため、殖民選定事業に必要な土地測量・地形図作成・土地区画・都市建設を策定。鉱物採掘のための綿密な地質鉱山調査。その運搬に必要な鉄道建設や道路整備。西洋家畜や西洋作物と果樹の導入。それを基盤とした洋食化。開拓とロシアの南下政策へ対応のため屯田兵制導入。自作農移住のため殖民結社の推進。最新の科学技術による殖産興業と近代化政策など、開拓の方法や手順を数々提言しました。
開拓使はケプロンの計画・勧告に従って多くのお雇い外国人技術者を雇入れ、 インフラ整備、炭鉱鉱山開発、麦酒・葡萄酒、製糖、皮革、缶詰工場などを設置。開拓使仮学校・札幌農学校開学。官園開設し栽培試験を行い、農業現術生徒を育成し、開拓地に西洋の作物や欧米の技術を導入・普及しました。
畑作と牧畜を中心とした西洋農業の推進のため、開拓使は札幌農学校教師のウィリアム・P・ブルックスやお雇い外国人技師のエドウィン・ダンやルイス・ボーマーを招聘し、農学校や官園において家畜の飼育実験や果樹や西洋蔬菜・牧草など数多くの栽培実験を行います。
私達が何気なく道端に見ているシロツメクサやムラサキツメクサ、カモガヤ・オオアワガエリ・ナガハクサなどの雑草は、元はと言えばダンやボーマーが試験栽培し、牧場に蒔かれた牧草ですし、そこら中に生えているセイヨウタンポポはブルックスが農学校で栽培していた蔬菜が元。広大な畑に植えられている麦やじゃがいも、大豆やトウモロコシ、西洋南瓜や玉ねぎ、キャベツなどの蔬菜もブルックスやボーマーにより試験栽培され、北海道に適すると判断された作物です。羊や馬や乳牛が草をはむ根釧台地やサロベツの牧場や、美瑛の丘や十勝の大地の畑作地は、広大な落葉広葉樹林や針広混交樹林の伐採と開墾によって出来た風景です。
北海道らしいと思っている風景は、蝦夷地で松浦武四郎が見た風景とは程遠く、開拓使の政策の中で作られました。武四郎の目にした風景は、開拓の手が及ばなかった知床や釧路湿原、大雪山などの山岳地帯など、わずかしか残ってはいません。自然豊かと思われている北海道ですが、開拓の歴史は原生林破壊の歴史と言っても過言ではないのです。
フリーランスキュレーター・北海道教育大学旭川校非常勤講師(博物館学担当)斎藤和範