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どこから来たの?石刃鏃文化の謎(後編)~土器・湧別市川遺跡編~【コラムリレー第24回】

写真1 湧別市川遺跡の発掘調査風景(2013年)

北方の人々か、北海道の人々か

前回の熊谷学芸員のコラムリレーに続き、石刃鏃文化の謎について考えてみます。その前に改めて石刃鏃文化の何が謎なのか、整理してみます。シンプルに表現すると「石刃鏃文化の担い手たちは、どこから来た人々のか」と言い表せます。「どこから」というのは、①サハリンから経由してきた大陸出身の人々なのか、②北海道在地の人々なのか、です。

このような謎が生まれる理由は、石刃鏃と呼ばれる石器が北方と関わりが強い要素をもつ一方、一緒に土器が出土しそれが本州・北海道と関わりの強い縄文土器であるからです。謎を解き明かすため、これまで多くの研究者が石刃鏃文化に関わる遺跡の発掘調査や研究をしてきました。湧別市川遺跡はその1つで、最近では2013年に福田正宏氏(東京大学大学院准教授 当時)によって発掘調査が行われました(写真1)。今回はその時の成果を中心に、謎に迫ってみます。

図1 石刃鏃が出土する主な遺跡 (森先2014 の図を引用編集)

石刃鏃文化と湧別市川遺跡

石刃鏃が見つかっている代表的な遺跡の分布をみると、北海道では東部でその多くが確認され、さらに北に目を向けるとサハリン・ロシアアムール川流域等にまで広がっていることがわかります(図1)。

石刃鏃文化の年代を見てみると。湧別市川遺跡から出土した縄文土器は化学分析の結果から8,000~7,000年前(縄文時代早期)の値がでており、他の遺跡も概ねその年代です。その頃は急激な寒冷化(8.2kaイベント)が起った時期で、当時の人々は急な環境変化に対応するための工夫が求められたと考えられます。そのため、北海道では寒冷地の文化である石刃鏃文化が広がった可能性があります。

図2 湧別市川遺跡から出土した縄文土器(左:拓本、右:写真) 福田2015の図を引用編集

北海道と関わりの強い土器

土器に視点を向けてみましょう。湧別市川遺跡で見つかった土器は、縄を押し付けた「絡条帯圧痕文(らくじょうたいあっこんもん)」(図2)や貝殻などを押し付けたり引きずったりした「条痕文(じょうこんもん)」といった文様の特徴があり、「浦幌式土器」と呼ばれる土器の仲間だと考えられています。浦幌式土器は北海道東部太平洋側の浦幌町で最初に見つかった土器で、文様や土器の形の系統から北海道中央部や東北北部との関連が強いと考えられています。そのため、土器は石刃鏃とは異なり、北海道在地の要素が強いように感じられます。しかし、他の遺跡では異なった特徴を持つ縄文土器が見つかっています。

図3 女満別豊里遺跡から出土した縄文土器(左:実測図、右:拓本)福田2015の図を引用編集

北方と関わりの強い土器

女満別豊里遺跡では「女満別式土器」と呼ばれる縄文土器が石刃鏃と一緒に見つかっています。この土器の特徴は型押文(かたおしもん)と呼ばれる、彫刻を施した棒を押し付けながら転がすなどしてつけられた文様があることです(図3)。それに類似した文様がロシアで確認されていることから、関連が指摘されています。そのような状況から、土器だけを見ても北海道との関わりのみを指摘することはできない、ということになります。石刃鏃も土器の一部も、北方との関わりがあるようです。

写真2 湧別市川遺跡発掘調査報告会の様子(2015年) 60名以上の参加があり会場は満員

謎があることの面白さ

前回の熊谷学芸員のコラムも含め、いろいろな視点で石刃鏃文化のことを見てきましたが、「石刃鏃文化の担い手たちは、どこから来た人々のか」の結論はまだ見つかりません。北方の人々が石刃鏃に関わる道具を持ち込んで北海道に移住したのか、北海道にいた人々が北方の文化を取り入れた結果なのか、明らかにするためには今後も調査が必要です。その謎を解き明かすには土器や石器だけをみていても難しく、当時の自然環境や気候変動などにも目を向け、どのような背景の下で石器や土器の製作・使用・選択などが行なわれていたのか等、様々な視点で考えることが必要で、その分野の研究も日々進んでいます。調べれば調べるほど謎が深まる、これが考古学の魅力の一つなのかもしれません。

<湧別町ふるさと館JRY・郷土館 学芸員 林勇介>

(参考文献)

福田正宏編2015『日本列島北辺域における新石器/縄文化のプロセスに関する考古学的研究』

森先一貴2014「ロシア極東における石刃鏃を伴う石器群」大貫静夫・福田正宏編『環日本海北回廊における完新世初頭の様相解明』