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旧石器?縄文?石刃鏃文化の謎 ~石器編~【コラムリレー第23回】

「石刃鏃(せきじんぞく)」という、とても謎めいた石器があることをご存知でしょうか。この石器の名前は、2つの時代を特徴づける石器が合わさってできています。

まず、「石刃(せきじん)」とは後期旧石器時代を代表する石器で、笹の葉のように細長い石器を1つの石の塊から大量に生産するという石器づくりの技術によって特徴づけられます。北海道でも2万年ほど前の旧石器時代の遺跡から出土し、黒曜石原産地である遠軽町白滝地域からは30 cmを超えるような大型の石刃が見つかっています(写真1)。

写真1 旧白滝15遺跡から出土した40 cmを超す石刃(右下)とその接合資料(写真撮影:佐藤雅彦)

一方、石器といえばまず名前があがる「鏃/石鏃(やじり/せきぞく)」は、縄文時代を特徴づける石器です。その名が示す通り弓矢の矢尻に用いられる石器で、博物館に行けば必ずと言っていいほど展示されている石器です(写真2)。

写真2 遠軽町埋蔵文化財センターに展示されている石鏃と弓矢の復元製作品

 

考古学者は、遺跡から石刃が出土すればその遺跡の時期を旧石器時代と考え、また石鏃が出土すれば縄文時代以降の時期とあたりをつけます。それほど、2つの石器は時代を特徴づける石器なのです。

 

石刃鏃文化の人々のくらしとは

石刃を作る人々がくらした旧石器時代の北海道は、氷期という現在よりも寒い時期にあたり植物質の食べ物がとても少ない自然環境でした。そのため、大型の草食動物などが重要な食料資源となり、その動物たちを追って季節的に移動しながらくらしていたと考えられています。

そのため、持ち運びしやすく様々な用途の石器を作り出すことができる石刃はとても重宝されていたようです。ただし、大量生産を可能とするためには元の原石の大きさにこだわる必要があったようで、白滝など黒曜石原産地で石器の材料となる大きな原石を入手することがくらしの一部だったようです(図1)。

図1 白滝の黒曜石原産地と旧石器時代の主な遺跡の位置

 

一方、間氷期と呼ばれる現在と同じような暖かい時期になると、木の実をつける広葉樹が北海道でも増え始め、調理のために土器が作られるようになります。また、狩りの道具として弓矢が主役となったことで、石器は河原の石で事足りるようになり、白滝など黒曜石原産地には縄文時代以降の遺跡はあまり残されなくなります。では、石刃鏃文化の人々はどうでしょうか。

彼らの痕跡は白滝など内陸の黒曜石原産地にも残されていますが、石刃の先端を加工した鏃(これを石刃鏃といいます)などわずかな石器しか見つかっていません(写真3)。大半は海沿いを主な生活の舞台としていたようで、魚を捕るための網の重りとして使われた石錘(せきすい)や、土器などが遺跡から見つかっています(写真4)。

写真3 黒曜石原産地直下の白滝(上白滝6遺跡)から見つかった石刃鏃

写真4 湧別市川遺跡から出土した網漁の重りと考えられる石器(石錘)

石刃鏃文化の遺跡の年代は約7千年から8千年前の縄文時代早期にあたり、同時期の縄文時代の遺跡となんら変わりのない道具が見つかっています。竪穴住居でくらし、土器で煮炊きし、弓矢を使って狩りをする縄文的なくらしを営んでいました。石刃を作ること以外は。

 

石へのこだわり?遺跡から見つかる原石の謎

白滝の黒曜石原産地を上流部に持つ湧別川の下流には、湧別市川遺跡という石刃鏃文化を代表する遺跡が残されています。この遺跡からは先ほど紹介した石錘や土器のほか、大量の石刃とこれらを作り出した際の石くず、さらにちょっとだけ加工が施された大きな黒曜石原石が見つかっています(写真5)。

写真5 湧別町から発見された大型の黒曜石原石。原石の一端(写真左側)に石刃を剥ぐための稜が作り出されている。湧別川上流の白滝の黒曜石原産地より運び込まれたものと考えられる。

 

彼らの作る石刃は、非常に真っ直ぐで厚みも均一、反りも少なくまさに石から切り取ったような美しい形をしています(写真6)。石器作りを経験したことがある方であれば、この石刃を作る技術がとても高度でなかなか真似できるものではないということがわかるはずです。私個人としては、北海道内のみならず国内で発見されている石器製作技術の最高峰だと考えているほどです。

写真6 湧別市川遺跡出土の石刃。大型の石刃(左上)は両の側縁に加工や使用した際の線状のキズは多く残されていることも特徴。小型の石刃(左下)は主に先端に加工を施し矢尻(石刃鏃)に加工されたと考えられる。

ただし、それ相応のリスクはあったようで、彼らの求める石刃を作り続けるためには、黒曜石原産地の中でもさらに山奥にある露頭まで足を踏み入れる必要がありました(写真7)。また、生活の舞台を海沿いとしたので、そこまで大きな原石を運ぶ必要があったようです。それが遺跡から見つかるちょっとだけ加工された大きな原石の正体のようです。ほぼ原石のまま遺跡に残されているということは、次回の石刃作りのためのストックだったと考えられます。内陸の原産地と海沿いの遺跡の往復は、とても計画的かつ慎重に実行されたのではないでしょうか。

写真7 白滝黒曜石原産地内にある「あじさいの滝露頭」。ここでは石刃製作に適した人頭大ほどの角柱状原石を見つけることができる。

 

 

旧石器時時代から住み続けた?それとも…

石刃鏃文化は、極東アジアにその起源を持つと考えられています。ですので、湧別市川遺跡の人々は、縄文時代早期になって北海道のオホーツク海沿岸へとやって来た人々だったのだと考えられます。

しかし、彼らの石器作りの根幹である石刃の生産には、大きな原石を欠かすことはできず、確実に入手できる場所の情報を把握していなければ長距離の移動はリスクが大き過ぎると言わざるを得ません。彼らはどのようにして白滝などの黒曜石原産地の情報を入手していたのでしょうか。

もちろん北海道へ渡ってきて、黒曜石原産地を発見した可能性もありますが、もしかしたら、黒曜石原産地の情報は海を越えた大陸の地でも代々受け継がれていたのかもしれません。

寒冷期に発達した旧石器時代の石器作りの伝統を保持しつつ、縄文時代のくらしを取り入れ温暖期を生きた石刃鏃文化の謎について、石器作りと黒曜石原産地との関係から今後もその謎を追及していきたいと考えています。

<遠軽町埋蔵文化財センター 学芸員 熊谷 誠>

 

※次回は、湧別町の林学芸員にバトンタッチし、石刃鏃文化を代表する遺跡である湧別市川遺跡からその謎を紹介したいと思います。