今から約1万年前、温暖な気候などの影響で、縄文時代の海は内陸に入り込み、6千年前には現在の美々駅辺りまで入り込んだ。それから、海面は段々と退き始め、現在の海岸線に近づいていった。この時、海の浸食と堆積作用で大きな砂の盛り上がり(砂堤列)を大地に残し、やがてスゲやヨシなどの群落の広がる湿原や、ハンノキなどの低木の生える原野になった。こうして形成されたのが、石狩低地帯南東部に広がる勇払平野である。
ウトナイの南岸。白く見えるのはサギスゲ(2013年7月1日)
この時に海の浸食や堆積作用によって形成された地形に河川の水が入り込み、大小の沼地が形成された。現在は、沼地その多くが乾燥して、農地・工業用地に転用され、現在残っているのは、ウトナイ沼、弁天沼など一部の沼地と周辺域の湿原である。
現存する勇払原野の沼地の中で、最も面積の大きいのは、ウトナイ沼です。毎年多くの渡り鳥が訪れる。特に、春や秋の渡りの時期になると、シギ・チドリやガンカモのなかまが、数多く飛来する重要な水域です。全国で観察される鳥の約半数にあたる270種類が特にガンカモが多く飛来することから、1991年には、国内で4番目のラムサール条約湿地に登録される。
「ウトナイ」という名称はアイヌ語の「ウツ・ナイ(肋骨)」が語源になっており、その名のとおり、まるで「肋骨」のように小さな河川が幾筋も流れ込んでいる。ウトナイ沼にも、美々川、勇払川、トキサタマップ川の3本の河川がウトナイ湖にそそぎ込み、今度は1本の勇払川として太平洋に流れ出ている。太平洋から勇払川を登り、ウトナイ沼や美々を経て千歳に抜けるためのルートは、江戸時代に「勇払越え」と呼ばれる行程の中でも使われていた。かつては蛇行していた勇払川の河川跡の旧古川地区からは、アイヌの人々の使っていた「チプ」と呼ばれる河川用の丸木舟や、「イタオマチプ」と呼ばれる海用の丸木舟が見つかっている。これも、アイヌの方たちが、この勇払川を生活や交通の要として使用していた証拠である。
水域や周辺の湿原には、分解された植物の遺体である、水を吸ったスポンジのような「泥炭」が多く堆積するが、勇払原野は夏でも冷涼な気候から、この泥炭はあまり堆積していない。沼地や河川周辺などの水域のまわりには、泥炭の堆積が少なく、ヨシやスゲのなかまで構成されている「低層湿原」が主に広がっている。弁天沼やウトナイ沼の周囲に広がる湿原の大半も、この低層湿原である。夏季になると、サギスゲ、ヒオウギアヤメ、タチギボウシ、ノハナショウブ、ミズトンボなどの花を咲かせ、湿原から少し乾燥した場所では、ハンノキ、ズミなどの低木が生育する原野が広がる。「ハスカップ」の愛称で知られるクロミノウグイスカグラやケヨノミも、このような環境を好んで生育する。もう少し樹木が成長すると、コナラ、ミズナラ、キハダ、エゾヤマザクラなどで構成される落葉広葉樹林帯が広がり、湿原や湿原にはモザイク状にさまざまな群落の植物たちが生育している。そのため、多くの種類の鳥類や哺乳類を観察することができる。
苫小牧の東側には「沼ノ端」と呼ばれる地名が残っている。ここは、ウトナイ沼のすぐ西側に位置する場所で、かつて広大な湿原や原野が広っていた。
ゆるやかに蛇行していた勇払川は河川改修のためにまっすぐに姿を変え、もともと原野や湿原が広がっていた沼ノ端地区には新興住宅地が広がり、区画整理で名称も一部変更された。この辺りが、かつて原野や湿原だったことを知る方たちは、段々と少なくなってしまった。それでも、ウトナイ沼をはじめとした勇払原野に残された湿原や水域は今でも静かに残り、今でも数多の動植物や昆虫たちを、ひっそりと育んでいる。
〈苫小牧市美術博物館 主任学芸員 小玉愛子〉