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日高発展の功労者 西忠義 【コラムリレー第25回】

会津藩士の子として生まれ、地方役人の道に進み、浦河支庁長として日高地方の発展に多大な功績を残した人物がいます。明治34(1901)年から明治42(1909)年まで浦河支庁長を務めた西忠義です。忠義の支庁長時代、日高の目覚しい発展を目の当たりにした人々は、後年忠義の生祠を建立してその功績に感謝しました。では、西忠義とはどのような人物だったのか探ってみます。

 

西忠義

西忠義

 

西忠義は、安政3(1856)年、現在の会津若松市に生まれました。
「心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても 神や守らん」
学問の神と崇められる菅原道真の句であり、幼少の忠義が母から諭された教えでもあります。

忠義が12歳の時、戊辰戦争が勃発します。幕府側の会津藩は逆賊の汚名を被り、敗北して領地を没収されます。しかし翌年には藩主松平容大(かたはる)の家名存続が許され、更に翌年、現在の青森県と岩手県の県境に3万石を与えられて斗南藩となりました。この頃、忠義は藩の役人試験に合格し、斗南藩地に赴きます。明治8(1875)年、若松県(福島県会津と新潟県東蒲原郡の一部を管轄)に斗南藩の出張所があった関係から、若松県津川支庁詰を命じられた忠義に、母は「苟(いやしく)も官吏たらんものは至誠一貫清慎勤を守り終始し三省を怠ることなく母の教に背く勿(なか)れ」と訓示します。忠義は終生「至誠」という言葉を使いました。それも幼少の頃からの母の教えを忠実に守った証といえ、母の存在が忠義に大きく影響を与えたことが窺えます。

 

忠義はその後、福島県、栃木県の役人を務め、明治31(1898)年、42歳で檜山支庁長となり、明治34(1901)年からは浦河支庁長として浦河に着任します。忠義の浦河支庁長時代の最大の業績は国営日高種馬牧場の浦河設置でした。忠義は、浦河着任の翌年には日高管内の実業家を集め、日高実業協会を創設して農商務大臣へ国営種馬牧場の浦河設置を上請し、種馬牧場開設のための陸路整備を訴え、整備を進めました。檜山支庁長、後志支庁長を歴任し、後に帯広市長となった佐藤亀太郎は「当時日高の交通は主として所謂天然道路に依るの外なく全道中最も不便の地たるを慨し、熱誠之が施設に努力した。当時日露戦役に際会して国費大緊縮の折柄、時の長官にして剛直なる河島醇氏を説き伏せ、逆に戦時の際を利用し、刻下軍馬輸送の緊急なるの時なり、故に馬産地たる日高国の交通を完備すると否とは其勝敗を決するの鍵なりと力説し巨額の国費を投じて染退橋を架設し一名之を馬橋と称して居る」(『西忠義翁徳行録』日高実業協会編)と当時の忠義のエピソードを披瀝し「日高の産業交通の助長発達に鋭意し、新冠御料牧場の外日高種馬牧場の設置に努力し、遂に日高をして北海冀北(きほく=良馬の産地)の名を恣(ほしいまま)にせしめた。」と功績を讃えています。かくして、明治40(1907)年、日高種馬牧場が浦河に設置されます。

 

日高種馬牧場事務所

日高種馬牧場事務所

 

忠義は、産業振興及びインフラ整備を進めると同時に、教育の充実にも注力しました。当時の文部省普通学務局長で、後に東北帝大、京都帝大総長を務めた澤柳政太郎が北海道の学事視察のため来道した際には、施設の整った様子を賞揚する柳澤に「教育事業の尊きは内容に存して形式に存せず、閣下、有司に導かれて道中の立派なる学校のみを巡視せらる夫れにも尚ほ改良すべきもの多し、何ぞ知らん、僻隅なほ寒心に耐へざるの所多きを。或は学童ありて教師無きの地あり、学ばんと欲するも学校のなき地あり、視学の東奔西走してもなほ及ばざる廣濶地に点在するの学校あり、之を一覧せられなば如何」(『西忠義翁徳行録』)と真っ向から反論し、これを実践するように浦河町内においては僻地に5校の小学校を新設しています。

 

忠義は、どのような人に対しても裏表なく日高の現状と展望を語り、そしてそれを実現するために邁進しました。一木喜徳郎内務次官(後の宮内大臣)の北海道視察に同行した五十嵐鑛三郎は、列車内で偶然乗り合わせた忠義の様子を記しています。「初めの程は二三尺も離れて恭恭(うやうや)しく北海道の事情を開陳し、平素懐抱する意見を述ぶるなで如何にも神妙の態度であったが、談進むに従って段々熱情が加はり、初めの中は次官との間の空席を叩いて談ぜしが、次第々々に次官に接近し終には次官の膝を叩きつつ談ずるようになった。当時道庁より随行したる部長を始め同乗者達は相見て其の無遠慮に唖然たりし態なりしが、君は一向に心付かず一談一叩益々甚しくなるので、是れには次官も頗ぶる当惑の體(てい)に見受けられた。談の漸(ようや)く終らんとして君は初めて次官の膝を叩きつつありし自分の不作法なるに心付き、只管(ひたすら)恐懼(きょうく)して其の無體を謝したのであったが、君の辭去(じきょ)せられた後一木次官は此の事を咄され、君の職務に熱心忠実なことを痛く賞賛された」(『西忠義翁徳行録』)

 

浦河支庁長在任中、落馬或いは馬車転覆すること数度、重傷を負いながらも病院から指揮を執ることもありました。明治42(1908)年に小樽支庁長を申し受けた場所も新冠出張中に馬車が横転して下敷きとなり、入院していた門別病院でした。佐藤亀太郎は「真に生死を超越して地方開発の事に猛進し、馳驅(ちく)し、奔走した、其の涙ぐましき奮闘振りには何人も敬服した。」と述べ「真に全身是れ至誠の人である。」と結んでいます。(『西忠義翁徳行録』)

 

西神社(左)と浦河神社(右)

西神社(左)と浦河神社(右)

 

母に教えられた「誠の道」を実践して自らも「至誠」を座右の銘とし、接した人に「至誠一貫の人」と讃えられる忠義に導かれるように発展を遂げた日高地方。昭和7(1932)年には、日高の人々によって浦河神社境内に「生祠西霊社(後に西神社に改称)」が建立されました(現在は日高種馬牧場が置かれた西舎(にしちゃ)神社に遷座)。忠義が日高発展の礎とした馬産は今も日本一です。

〈浦河町立郷土博物館 吉田正明〉