夜明け前の海辺。打ち上がったばかりの白く薄い貝殻の中からは、8本の腕がはみ出して蠢いていました。
アオイガイ。別名カイダコ。タコの仲間ですが、メスは長さ10〜20cmの石灰質の貝殻を作り、その中に入って熱帯や温帯の暖かい海を漂って暮らしています。半透明の紙のように美しい殻は、秋から冬にかけて、北陸や山陰など西日本の日本海側の海岸でよく漂着が見つかります。北海道沿岸には本来は生息していないのですが、日本海を北上する対馬暖流に運ばれて、年によっては石狩湾沿岸までやってくることがあります。
殻を作るのはメスのカイダコだけ。じゃあオスは?というと、体長はメスの10分の1しかなく、約2cm。しかし実際に見つかったことはほとんどありません。
海辺でアオイガイが見つかるとき、ほとんどの場合は空っぽの殻だけです。タコが入ったまま海岸に流れ着いても、あっという間に鳥やキツネに中身だけ食われてしまうからです。
海水温が異常に高かった2010年、夜明け前から石狩湾の漂着物調査をしていたときのことでした。漂着アオイガイがたくさん見つかったのですが、その中で幸運にも、打ち上がったばかりで“生カイダコ入り”のアオイガイも発見できたのです。
よく見ると、貝殻の表面に何か白い細長いものがくっついていました。わずかに動いています。まるでイモ虫のようなそれは、カイダコの「交接腕」でした。
今から200年前のこと。フランスの博物学者キュビエは、カイダコのメスの体に、イボ状のものがたくさん付いた細長い生物を発見しました。そして、それをタコに付く新種の寄生虫として「Hectocotylus」(百のイボを持つ虫)という学名をつけたのです。しかし後に、実はこれは寄生虫などではなく、カイダコのオスの8本の腕(一般に「足」と呼んでいる部分)のうち1本、「交接腕」であることがわかったのです。イボのように見えたのは吸盤でした。
交接腕とは、タコやイカのオスの腕のうち1本が、生殖(交接)のときにメスに精子を送り込むために特化したものです。タコの中でもカイダコなど一部の種類は、その際に交接腕を切り離してしまいます。うまくメスに吸盤で付着できた交接腕は、その後もしばらく生きていて、タイミングを計ってメスの体内に精子を送り込みます。
1匹のメスに何本もの交接腕が付着していることもあるそうです。モテモテのメスです。あるいは、このときの石狩での発見のように、殻の表側に付着しているのはメスの体に到達するのは無理でしょう。これは“失敗”ですね。
交接腕を切り離した後、オスはどうなるのか——。また生えてくるのか、あるいは死んでしまうのか。まったく明らかにされていません。海の世界の生物は、まだまだわからないことばかり。
もう10年以上、海辺を歩き回っていますが、筆者が交接腕のついたアオイガイを見つけたのは、後にも先にも、この1回だけ。北海道では他に発見例は知られていません。石狩が唯一の貴重な記録です。 陸と海の境界、海辺。そこは、陸の世界に住む人間が、海という謎に満ちた世界に出会うことができる場所なのです。
<いしかり砂丘の風資料館 学芸員 志賀健司>