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少年ジャンパー【コラムリレー第18回】

町内のある高校からの依頼で、学校祭にて父兄対象の講座を担当することになり、その冒頭で「余市町とはどんな町ですか?」と問いかけてみました。町外の父兄が多いなかで「漁業の町」、「宇宙飛行士の出た町」などのほか、「果樹の町」、「ニッカの町」など、事前に予想していた答えがいくつかありました。そこから「実は遺跡や文化財の多い町なんです。」と話を展開するシナリオを考えていたのですが、これは必ず出るであろうと予想していた答えがなかなか出ません。それは「スキージャンプの町」です。余市町出身の私にとっては即答されるものと考えていたのですが…世間ではそうではなかったようです。

 

実は最近、町内においてもこのイメージは薄れつつあるようです。余市町教育委員会で使用している封筒には「ジャンプ王国よいち」の文字とジャンプ選手のイラストが入ったものがあります。この封筒に対して町民の方から「ふさわしくない」といったご意見を頂いたそうです。最近では余市町よりも、活躍する選手の多い下川町や、注目度が高い女子ジャンパー高梨選手の上川町などの印象が強いのではないでしょうか。

 

封筒にプリントされた「ジャンプ王国よいち」イラスト

封筒にプリントされた「ジャンプ王国よいち」イラスト

 

余市水産博物館では、平成23年度の特別展として「スポーツ偉人伝―スポーツ史を彩った余市の人たち―」を開催しました。余市町にゆかりのあるスポーツ選手やスポーツにまつわるエピソードなどにスポットを当てて、あわよくばスポーツ振興にも一役買おうという企画です。

 

平成23年度特別展の様子

平成23年度特別展の様子

 

記憶に新しい駒大苫小牧高校夏の甲子園2年連続優勝(2004・2005年)、それに続く準優勝(2006年)時の歴代主将である佐々木孝介氏、林裕也選手、本間篤史選手はみな、中学硬式野球の強豪チーム「余市シニア球団」の出身、そのホームグラウンドである余市町営球場でその技術を磨きました。

 

佐々木孝介氏より借用した駒大苫小牧高校野球部の帽子

佐々木孝介氏より借用した駒大苫小牧高校野球部の帽子

 

つばの裏に書かれたチームメートからの寄せ書

つばの裏に書かれたチームメートからの寄せ書

 

また1934年の水泳日本選手権において1500m自由形で優勝、水泳日本のエースとして、ベルリンオリンピック(1936年)に道産子の競泳選手としては初のオリンピック代表選手となり、400m自由形で5位に入賞した根上博氏は、現在のような立派なプールなど無い時代に余市の海や川で練習を重ねました。

 

根上博氏の活躍を報道する新聞記事

根上博氏の活躍を報道する新聞記事

 

そして札幌オリンピック(1972年)スキージャンプ70m級で金メダルを獲得し、その見事な着地は「笠谷テレマーク」と呼ばれ当時の子供たちがこぞって真似をした笠谷幸生氏、スキー世界選手権(1966年)ジャンプ90m級で日本人初の銀メダルを獲得し、ジャンプ・複合の選手としてオリンピック3大会連続出場の藤沢隆氏、両氏はジャンプの名門余市高校(現余市紅志高校)では一学年違いで切磋琢磨し、世界へと羽ばたきました。

 

笠谷幸生氏の見事な飛型

笠谷幸生氏の見事な飛型

 

さらに、長野オリンピック(1998年)スキージャンプ団体・個人ラージヒル金メダル・個人ノーマルヒル銀メダルを獲得し、日本中を熱狂させた船木和喜選手、同じく長野オリンピックスキージャンプ団体金メダルを獲得、最も悪い条件のもと安定した跳躍で「団体金の一番の立役者」と評された斉藤浩哉氏の両氏は、札幌オリンピックの翌年に発足した余市ジャンプスポーツ少年団の出身で、笠谷・竹鶴シャンツェで練習を重ね、世界の頂点を極めました。

 

船木・斉藤両氏の使用したスキー板ほか

船木・斉藤両氏の使用したスキー板ほか

 

北海道内では中規模のさほど大きくはないこの町が、日本中を熱狂させた数多くのスポーツ選手を輩出しており、特にスキージャンプに関しては紹介しきれないほどの有名選手がおり突出しています。これは、スポーツ選手を育む豊かな土壌があり、数多くの人々によって支えられた結果と言えるでしょう。

 

そのうちの一人が、ニッカウヰスキーの創設者竹鶴政孝氏です。余市町体育連盟初代会長を務め、町営球場などがある運動公園やジャンプ台の建設に尽力され、現在も使用される竹鶴シャンツェや毎年開催されるニッカ・竹鶴杯ジャンプ大会に名が残されており、ジャンプに限らず余市町のスポーツ振興全体に多大な貢献をされました。

 

女子野球大会を観戦する竹鶴氏(中央左)

女子野球大会を観戦する竹鶴氏(中央左)

 

歴史をさかのぼると、戊辰戦争に敗れ入植した会津藩士が結実させ余市の農業の礎を築いたリンゴが、創立当初のニッカ(創立時の社名 大日本果汁株式会社⇒日果⇒ニッカとなりました)を支えたリンゴジュースの原料となり、その創設者竹鶴氏が余市のジャンプを支え、数多くの名選手を輩出した。このコラムの冒頭にある「果樹の町」、「ニッカの町」、「スキージャンプの町」は一見関連が無さそうですが、実は繋がっているのです。

 

ニッカ工場内に積まれたリンゴ

ニッカ工場内に積まれたリンゴ

 

思い返すと私の少年時代は、冬の遊び場は室内ではなく外であり、雪山に小さなジャンプ台を作って朝から晩まで繰り返し飛んでは「笠谷テレマーク」を決めるハナを垂らした子供があちこちにいました。私に限っては高い所が苦手であったために、大きなジャンプ台に挑戦する勇気が無く、遊びから競技へと発展することはありませんでしたが…。

 

さて現在、余市のジャンプを取り巻く状況ですが、大変厳しい状況であるようです。余市スキー少年団でジャンプ選手として登録しているのが、8名(高校生3名 中学生3名 小学生2名)と輝かしい伝統の後継者が年々減りつつあり、数年後には存続の危機を迎える可能性もあります。

 

これには、子供の数が減っていることに加え、以前は冬期限定の競技であったジャンプが各地のサマー用ジャンプ台の整備により、一年を通じて行える競技へと変化したため、他の競技との掛け持ちが難しくなったこと、他の競技に比べ「お金がかかる」、「危険」といったイメージが先行していること、一昔前に比べ様々なスポーツが世間で認知され選択肢が増えたことなど多くの要因があるようです。

 

この状況を打破するのは簡単ではありませんが、余市には、笠谷・竹鶴シャンツェをはじめとする素晴らしい環境があります。また、大会が開催される際にはたくさんの人たちがそれを支えようと集まります。そして、素晴らしい指導者もおります。この存亡の危機にある余市のジャンプ文化を「過去のもの」とするのではなく、未来へと繋げ、少年ジャンパーの元気に飛ぶ姿と笑顔をこれからも見続けるために私も微力ながら関わっていきたいと思います。

 

現在の笠谷・竹鶴シャンツェ

現在の笠谷・竹鶴シャンツェ

 

<よいち水産博物館 小川康和>

 

次回の投稿は、富良野市博物館の泉 団さんです。お楽しみに!