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150年の道をあるく-黒松内山道の歴史-【コラムリレー第18回】

 径は水田の如く顛覆し易す。 

 淤泥凸凹馬腹に及ぶ。 

 風雪禁じ難く憩ふに家なし。

 壮士は呼び女子は哭く。

「黒松内へ向かう道は水田のようにぬかり、足下をとられて転びやすくなっている。泥道は凹凸で、馬の腹にもおよぶありさま、北風に雪がまじり、寒さが骨身に沁み、休息しようとしても近くに人家が無い。元気な男達は呼び合い、婦女子は辛さに泣きだすようなさまである」。(『黒松内町史上巻』)

函館と札幌のちょうど中間に位置する黒松内は、交通の要所として発展したまちです。

かつて、太平洋に面する長万部を起点とし、黒松内を経て日本海側の寿都・歌棄にいたる山道がありました。「黒松内山道」と呼ばれたこの道は、蝦夷地の東海岸と西海岸を連絡し、北海道の開拓を語る上でも重要なものです。

冒頭の詩は、今からおよそ150年前の1869年(明治2年)10月、函館から札幌に向かう途中に黒松内山道を通った開拓判官・島義勇によって詠まれました。いくつもの川を横切る山道は、大雨や雪解け水による道の損壊がひどく、想像を絶する難路であり、数多の通行人を苦しめたといいます。

黒松内山道はいかに開削されたのでしょうか。当時の蝦夷地を取り巻く社会情勢が、その背景にあります。

和人地(松前地)における鰊漁は1800~1840年代にかけて不漁続きとなり、かわって西蝦夷地での鰊漁が盛んになっていきました。そのため、和人地から西蝦夷地へ稼ぎに出る漁夫が急増。彼らは船で茂津田岬を通る危険を避け、陸路をとって長万部から漁場のある寿都や岩内方面を目指しました。また、ロシア南下の脅威に備えるため、蝦夷地の要所を結ぶ道の開削は急務であり、各地で山道の整備が進みます。

こうして1856年(安政3年)、黒松内越えの道が本格的に開削。これが、黒松内山道のはじまりだと言われています。

黒松内山道を歩いた著名人は多く、松浦武史郎をはじめ、榎本武揚、ブラキストン…北海道の開拓史に名を残す人々が山道を越えていきました。

松浦武史郎は「再航蝦夷日誌」において、クロマツナイの休所には1日200~300人を超える漁夫が宿泊し、正月から2月は大変な人で、長万部までの海浜は一条の蟻の列のように黒くなっていたと、賑わう山道のようすを物語っています。

ブラキストン線を提唱したイギリスの動物学者トマス・ブラキストンは、「あんまりひどい道だから、乗馬の旅行で泥水を一度ならずかぶらずに通れる者はまずいないと言ってもよかったし、乗馬ないし駄馬の小馬は、この道路の尽きる所では文字通り泥まみれになった姿でやって来たが、その恰好はご想像におまかせする」、「実際歩くにはもっともいまいましい道だったが、それでも何百、何千人という人びとが四季を通じて利用せざるを得ない道であったということは、それが蝦夷島内のこの所で東海岸から西海岸へ直接横断の唯一のルートだったからである」と、山道の悪路ぶりと、人通りの多さを記しました。

黒松内山道が開削されてから約30年後の1887年(明治19年)には、道が改修されて長万部から寿都まで馬車の通行が可能に。1903年(明治36年)になると函館本線・黒松内駅が開業し、停車場等大規模な施設を備える黒松内駅の周辺には、多くの鉄道関係者が住み、駅前市街地が形成されていったのです。

さらに1920年(大正9年)、寿都-黒松内を走る寿都鉄道が開通し、黒松内駅は2線使用駅となります。寿都鉄道は、鰊や鉱山で採掘された原鉱石の輸送を担いました。

一時は「鉄道の町」とまでうたわれた黒松内でしたが、鉄道の拠点が長万部駅に移り、やがて寿都鉄道も廃止され、現在その面影はほとんど無くなってしまいました。

黒松内山道のその後を記した資料は少ない。現在も道道や国道として、人や車が往来する部分も残されていますが、使われなくなった道は、どうなっているのでしょう。

私が勤める黒松内町ブナセンターの近くにも、山道の跡だと思われる道があります。「ぶなの小道」という散策路の一部が、かつての黒松内山道であったようです。

ブナセンターの近くにある「ぶなの小道」。

実際に歩いてみると「ぶなの小道」内の山道跡は、側溝があり、道が盛り上がっているので雪が深くなければすぐに区別することができます。

 

山道跡の中央に生えるミズナラ。手前は散策路として使われているため道が残るが、奥はササにうもれている。

奥の方まですすむと、山道跡のほぼ中央、道を遮るようにミズナラの巨木が生えていました。どうやら道が使われなくなってから芽生え、成長を遂げたようです。散策路として使われていない部分にはササが生い茂り、痕跡が不明瞭になりつつありました。

人が歩かなくなった山道は次第に廃れていきました。今は、わずかに生活路や散策路として使われたものやその跡が残るのみです。

およそ150年前に開削された黒松内山道-。役目を終えた道は今、ゆっくりと森の中へ消えてゆこうとしています。

 

(黒松内町ブナセンター 環境教育指導員 綿貫梓)

 

参考文献

黒松内町.1987.『黒松内町史 上巻』

黒松内町.1993.『黒松内町史 下巻』

三浦宏.2003.『道の歴史を訪ねて』.北海道道路管理技術センター