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「祈り」の化石ー寺社に託された「龍神様」ー【コラムリレー第4回】

北海道と名付けられて150年が経過する中で、北海道の日本海側は早くから鰊漁で栄えてきました。石狩もそうして鰊漁で栄えた歴史を持つ町の1つです。幕末から既に行われていた鰊漁ですが、徐々に漁獲量も増加し、明治30年代には7万トンを超え、鰊漁が一大産業となると共に、石狩は漁村として人のにぎわう町となりました。しかし、その後漁獲量は減少し、昭和30年代には鰊がほとんど獲れなくなってしまい、漁村に住む人々、漁業に従事する人々が減少していきました。こうした鰊漁の趨勢の影響を受けたのは人々だけではありませんでした。

影響を受けた存在の1つが「龍神様」です。今回は石狩で鰊漁と深くかかわりのあった「龍神信仰」の変化に注目したいと思います。

「龍神(竜神)」とは、「龍王」「竜宮」等とも呼ばれます。想像上の生き物である「龍」を神格化し、中国の影響をうけた受けたされる「龍神信仰」ですが、日本では水神の1つとされ、海神や、蛇神と同様に考えられることもあります。そして、農耕に関わる人々には雨乞いの対象として、あるいは漁業に関わる人々には豊漁祈願の神様として信じられていました。

石狩という町は鰊漁・鮭漁で栄えた他、人々の生活物資を本州から運ぶのも海路ということで、その生活は海という存在とは切り離すことができませんでした。しかし、海上には危険も多く、心の安寧を求める中で、人々の間に「龍神」信仰が広まっていったと考えられます。漁村に関わる人々の守り神、心の支えとして、「龍神」は重要な存在となっていき、「龍神信仰」は漁村では当たり前のように行われました。

「信仰」というと、大きな寺社仏閣が建てられ、地域の人々がお参りしているというイメージが多いかもしれませんが、地域で小さな祠をたてる場合もあれば、各家々でご神体を持ち、祀るということが多くありました。例えば、鏡がご神体であったり、蛇をモチーフにしたご神体であったりします。こうしたご神体を、漁村として栄えていた時期、各家々で祀っていたのです。

石狩市に現存する龍神堂

鰊漁が盛り上がり、漁村としても栄えている時期には、大変立派なご神体が祀られていました。大きさや意匠、そのどれもからも、当時の人々が「龍神」に込めていた思いを感じることができます。

龍神のご神体である鏡。鏡は直径1メートル程、台座も含めると高さは2メートル弱に及ぶ。台座は木製。

しかし、時代が進み漁獲量が減少していくと、漁村に住む人、漁業に従事する人も減少していきました。そして、その土地に住んでいた人が移住する、あるいは世代の移り変わり等により、それまで祀っていたご神体を持っていることができなくなった人々は、ご神体を地域の古い寺や神社に託しました。石狩の某寺社には、そうして集まった龍神を意味するご神体が現在でも「龍神堂」という形で残され祀られています。

石狩市某寺社内、龍神堂のご神体

 

白蛇をモチーフにしたご神体(家内円満祈願)。左は白蛇モチーフの絵馬、右は二匹の白蛇が金の宝玉を抱いた像。

この寺社では、本堂は別に存在し、それに隣接する形でこの「龍神堂」が存在しています。そしてこれらのご神体は、鏡、像、絵馬、掛け軸と形は様々ですが、どれもが、昔はこの地域の人々が個人で祀っていた龍神に関わるご神体です。各家で祀っていたものですが、持つことが出来なくなったという時、ただ捨てる、というのではなく縁ある寺社に相談し、託されたものだとこのお寺の方は語ります。

今では、個人の家で神様を祀るということが減り、家に神棚があるという家庭も少なくなっていることでしょう。しかし、その「神様」は捨てられることなく、ひっそりと、近所の寺院、神社にまるで化石のように眠っているのかもしれません。

北海道と命名されて150年、時代の変化と共に、地に住む人々の生活や思想も変化を続けてきました。そうした変化を「龍神」というものから感じることができます。

 

<いしかり砂丘の風資料館 学芸員 坂本恵衣>