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「クロビイタヤ」発見の謎【コラムリレー第32回】

新冠町郷土資料館の前庭に「ふるさとの木 クロビイタヤ」という看板が掲げられています。カエデ科の樹木の中でも希少種といわれるクロビイタヤは、明治17年に札幌農学校(現北海道大学)の宮部金吾博士によって初めて「新冠」で発見されたことから、ふるさとにゆかりのある木として紹介しているものです。

しかし、2016年に桜並木で有名な二十軒道路の入口に、クロビイタヤの発見顕彰記念碑が建立されました。宮部博士が初めてクロビイタヤを発見した地が、実は「静内」であるということで、多くの方々が参列し盛大に除幕式が行われました。

「クロビイタヤが初めて発見されたのは、新冠か?静内か?」

数年前から識者の間で様々な意見がありました。これまでの定説では、宮部博士が新冠牧場内で見たことがないイタヤの木を発見し、後に植物学の権威であるロシアのマキシモビッチ博士に照会したところ、新種として学会に発表されるに至ったという主旨で記されています。

【クロビイタヤ発見についての主な文献の一文】

〇『新冠町史』より~宮部金吾博士は、植物研究のため駅逓の道産子に乗って新冠牧場を静内に行く途中、小道のほとりに花をつけた一本のイタヤの木を発見した。

〇『続新冠町史』より~クロビイタヤは、宮部金吾博士が馬で植物採集旅行(明治17年)に出た途中、新冠で初めて発見された樹種である。

〇『御料林~日高新冠の森林植物 館脇操』より~マキシモビッチ氏に依り発表されたクロビイタヤは、我等が宮部金吾博士に依り新冠で初めて発見された植物である。

上記のような文献から、クロビイタヤは新冠で発見されたことが一般説として捉えられていました。しかし、宮部金吾博士の植物調査の行程を改めて紐解くと、このような記録が確認されています。

〇『宮部金吾』より~ 六月十四日 下下毛―新冠牧場 三里   この日も馬で行く。晝食後下下方(現在の静内)をたった。シベチャリ川の谷は、低い丘陵の間に展開し、平地は思ったより廣く、畑があり、水田があり、農家の背戸にはツツジの類が目立って咲いていた。所々に樹林があったが、大した収穫物もなく、馬の上でノートをとりながら進んだ。この日の収穫物はクロビイタヤである。馬上で変わったイタヤだなと感じたので、これを採集、何という呼び名だろうかと思ひ、馬子に問うたら、馬子はクロビイタヤだと答へた。

このように宮部博士の自叙伝では記されています。新冠牧場は、「新冠」の名を冠しているものの、範囲は広大で、当時の牧場本部は現在の二十軒道路近く、すなわち現在の静内にありました。下下毛から三里の距離を移動、そしてシベチャリ川の風景についても記しており、このことが「クロビイタヤ最初の発見地は実は静内」という説の理由となっています。

ただ、地元の郷土誌に興味深い文献があります。

〇『にいかっぷの石碑・ふるさとの木・史跡・記念物』より~世界的に知られる宮部金吾博士が、旧新冠御料牧場に植物研究のため訪れたとき、「明和の山道」で初めて発見され、新種として学会に登録された由緒ある樹種である。別名「ミヤベイタヤ」とも呼ばれ、現在の明和の林道沿いに自生する。

「明和」とは新冠町内にある地名です。この一文を書いた新冠郷土文化研究会の方はすでに亡くなられたため、どのような記録を根拠として残したのかは不明となってしまいました。郷土資料館の前庭にある「ふるさとの木 クロビイタヤ」は、上記の郷土誌を書いた方が、新冠町明和地区での発見を信じ、この地から移植した木となっています。

新冠の明和地区で発見された記録が、現在の北海道大学に残されているか照会したことがありましたが、残念ながら確認されませんでした。その他、宮部博士のクロビイタヤ標本のラベルには、「静内郡」と記載されたものと、「niikappu」と記載されたものがあり、両方の地域が表示されていることをご教示賜わりました。何とも謎が深まるばかりです。

私自身も様々な方々にご協力いただきながら調査研究をしましたが、調べれば調べるほど新たな謎が生まれ、結局結論には至らず今日を迎えています。クロビイタヤの発見をめぐって、新冠と静内が論争しているわけではまったくありません。機会があれば、北大の方々や静内の方と共に、交流を図りながら調査をしていきたいと感じています。それぞれの見解をよそに、クロビイタヤの木は、今日も「日高」のそよ風を受けて静かに揺れています。             【新冠町郷土資料館 学芸員 新川剛生】