北海道大学総合博物館には札幌農学校時代の植物標本が数多く収蔵されており、その中に農学校第18期生「川上瀧彌」が採集した標本も含まれます。川上瀧彌は1897年(明治30年)に阿寒湖のマリモを発見・命名した人物ですが、北海道、熊本、台湾と舞台を移しながら植物学・農学の発展に寄与し、44年の短い生涯を駆け抜けた人物であることはあまり知られていません。札幌農学校から現在の北海道大学に続く学風「フロンティア精神」「チャレンジ精神」「現場主義(フィールドワークの重視)」を体現した川上瀧彌の人生を紹介します。
川上は1871年(明治4年)1月24日に山形県飽海郡松嶺町(現在の酒田市)で生まれました。幼い頃から植物を採集して標本を作り、札幌農学校入学前に既に数千種以上の植物標本を作成していたほか、札幌農学校教授の宮部金吾に手紙を送って教えを仰いでいたそうです。1891年(明治24年)に札幌農学校予科に入学した後は、予科内の雑誌『蕙林』(後に農学校の雑誌『學藝會雑誌』と改称)の編集に携わり、帰省の際などに採集した植物について多数の報告文を投稿しました。
1896年(明治29年)に農学校本科に入学し、1897年には北海道庁の雌阿寒岳気象観測の調査補助の傍ら高山帯や阿寒湖周辺で植物を調査、1898年には択捉島の植物調査、1899年には利尻島気象観測の補助をしながら植物調査を行いました。これらの調査の際には膨大な植物標本を作成し、恩師宮部に手紙で調査成果を細かく報告していました。また帰札後には調査結果をすぐにまとめ、『學藝會雑誌』のほか東京植物学会の『植物学雑誌』に成果を発表し続けました(表1)。
これらの調査の中でマリモをはじめとする日本新産植物を多数発見・報告したほか、メアカンキンバイPotentilla miyabei Makino、カワカミモメンヅルAstragarus kawakamii Matsum.、ミヤマオグルマSenecio kawakamii Makinoなどの新種を発見しました。これらの新種は川上が採集した標本を基に牧野富太郎、松村任三、原 寛ら植物分類学者が記載し、和名や学名にカワカミ(kawakami)の名前が入っています。
当時は現在のような、使いやすく分かりやすい図鑑があった時代ではありません。宮部をはじめとする植物学者との交流や自己研鑽があったからこそ、日本新産種や新種を的確に採集することができたのです。
植物学の発展に寄与する一方で、川上の卒業論文の課題は「稲のいもち病」。植物病理学は植物学と並んで川上の生涯の研究テーマであり続けました。
1900年(明治33年)に農学校本科を卒業した川上は北海道庁嘱託として勤務し、翌1901年に熊本農業学校に赴任します。1902年5月には婚約していた山内千歳と結婚しますが、同年10月に千歳は病気で亡くなってしまいます。翌年1月、心機一転の心持ちだったのか、川上は宮部へ手紙を送り、宮部と札幌農学校の同期で台湾総督府に勤務していた新渡戸稲造への進言を依頼し、念願叶って1903年10月に後妻榮子を伴い台湾に渡ります。
渡台後は農事試験場技師、国語学校技師、殖産局附属記念博物館館長など多数の役職を兼務しながら東南アジア地域の植物の調査を続け、『台湾植物目録』をはじめとする著書や論文を多数発表しましたが、1915年(大正4年)8月20日の博物館開館当日に病で倒れ、翌21日に急性腹膜炎により享年44歳で逝去しました。
北海道や台湾における植物学の黎明期に活躍した川上瀧彌。その生涯がもっと長いものであったなら、と思わずにはいられません。
<釧路市立博物館 学芸員 加藤ゆき恵>