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断崖絶壁の上に建つ神社【コラムリレー第38回】

皆さんは「日本一危険な神社」で有名な「太田神社」をご存じでしょうか?

せたな町大成区に所在する神社なのですが、なんと本殿が建っている場所は断崖絶壁の太田山(485m)の上にある洞窟です。本殿までの道は40度の急こう配な階段を上り、山道を行き、最後は鎖を上ってやっと辿り着くことができます。

矢印部分が本殿がある横穴

どんな神社か?

太田神社の創立は古く、嘉吉年間(1441~1443)と言われ、享徳3(1454)年には松前藩の祖である武田信広が太田に上陸し、「太田権現」の尊号を送ったことや、幕使が書いた「蝦夷拾遺」にあるように、太田は松前藩の直轄地であるなど松前藩と縁が深い神社です。また、特徴的なのは仏神が入り交じり信仰されていたことです。

本殿に施された松前菱

明治4(1871)年の神仏別離以前は主祭神である猿田彦神以外にも、本殿には仏像や経文の写しなどが寄進されていたとの記録が残っています。現在、寄進されていた経文や仏像の多くは別の寺院に移されましたが、円空仏など一部の仏像は大正10(1921)年に洞窟内で火事があり、焼失してしまいました。

太田神社の例大祭は、宝永元(1704)年に越前国正光寺の僧が観音経を奉納し、納経記に「太田獄西大権現本地地蔵菩薩六月二十四日」とあり、6月24日に例大祭を行っていたようですが、嘉永元(1848)年に不動尊安置後は6月28日に例大祭を行っていたようです。現在は6月27・28日の2日間を例大祭としています。一日目は白装束を纏った男性が身を清め、本殿に神酒を届ける「お山がけ」を行い、二日目には神楽を舞います。

「お山がけ」の様子

太田山に伝わる伝説

太田山には2つの伝説が現在まで伝えられています。① 入植者がアイヌ民族から伝え聞いた口承伝承、② 「蝦夷征討」で有名な阿倍比羅夫が登場する伝説です。

この2つの伝説の違いは、主人公がアイヌ民族か和人かという点と、最後の結びが違うという2点のみで、基本となるストーリーはどちらも太田山で狩りをしていたら、大きな熊を見つけ追いかけていったら熊が洞窟に身を隠し、仕留めようと洞窟の中に入ると白い老翁が出てきたことにビックリして下山するというものです。

①では、山から下りた若者が村の知恵者に出来事を話し、熊を狩りすぎて神様の怒りに触れたのだと語り、以後太田山では狩りをしなくなったと締め括られます。

②では、部下2人が山から下りた数日後に病で死亡し、それを聞いた阿倍比羅夫は神の怒りだと考え、洞窟に祠を建てて神を慰めたという締め括りです。

この2つの伝説はストーリーの類似性から考えると、おそらく①を聞いた入植者が、②の話を創作し現在まで語り継がれたのではないかと思われます。

500年以上も続く太田神社の歴史で現在わかっていることは、まだまだ少ないです。しかし、地道に調査・研究を行っていけば全体像がわかると思うので、今後も地域の歴史を紐解いていきたいと思います。

せたな町教育委員会 学芸員 工藤大