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望郷の念と豊穣の願い-淡路豊年桝踊り-【コラムリレー第34回】

「今年ぁー豊年 穂に穂が咲いた ヤーエ  道の小草に 米がなる ヤーエーソーラエー」

これは、新ひだか町三石の延出(のぶしゅつ)地区(現・豊岡、富沢地区)に伝わる「淡路豊年桝踊り(あわじほうねんますおどり)」の一節である。

同地区は、明治19(1886)年に、淡路島【兵庫県南淡町(現・南あわじ市)】から集団入植で移住してきた人々によって拓かれた地域で、当時、8世帯が移住してきたことが記録に残されている。

こうした人々が、開墾作業に明け暮れる苦しい開拓生活の中で、遠く離れた故郷を偲び、また、豊穣の願いを込めて、ふるさとで習い覚えた歌や踊りをこの地に再現したのが、今に伝わる「淡路豊年桝踊り」の始まりである。

「はさがけ」が広がる延出地区の風景【昭和48(1973)年】

明治38(1905)年に日露戦争凱旋祝いの演芸会が同地区で開催され、そこで披露したことがきっかけとなり、以後、地域の秋祭りの演芸会では欠かさず披露されることとなる。その後、淡路出身者のみならず、他の地域から入植してきた人々にも次第に受け入れられ、いつしか地域全体のものとして今に受け継がれてきた。地域では、子どもからお年寄りまで「桝踊り」の名で親しまれ、現在もなお続く秋祭りの演芸会では、淡路島から海を渡って来たこの「桝踊り」で幕が開くのが慣わしとなっている。

踊りは、太鼓と拍子木の音頭に囃子方が加わり、朗々と歌い上げられる「五尺節」に合わせて踊られる。この「五尺節」に蒔き付け時から収穫までの農耕の姿が振り付けられ、農民の豊穣を願う素朴な心が表現されている。

「傘踊り」(雨乞い)、「カッカ踊り」(豊作祈願)、「手踊り」(豊作への感謝)、「桝踊り」(収穫祝い・計量のための桝と斗搔きを持って踊る)という、それぞれに意味を持つ4つの踊りで構成され、踊りの後半部では、祝い酒に酔った一人の男が、実入りの重い米俵を苦労の末に担ぎ上げ、その場を盛り上げる「道化踊り」が加わる。

「五尺節」の歌詞に照らすと、1,2番で「傘踊り」、3,4番で「カッカ踊り」、5,6,7番で「手踊り」と「桝踊り」が前後の列で同時に進行し、6番からは更に「道化踊り」が加わる形となる。

歌詞【五尺節】JPEG

保存伝承活動では、昭和46(1971)年に有志によって「延出郷土芸能保存会」が結成され、活動が一段と活発になる。特に、昭和51(1976)年と59(1984)年には、全国青年大会の郷土芸能部門で、北海道代表として全国大会への出場を果たしている。このうち2回目に出場した際に、同じ「桝踊り」を踊る一団があり、出場メンバー一同が驚いたというエピソードがある。

その一団とは、兵庫県代表として出場していた淡路島の団体で、踊りの振付もほぼ同じものだったという。当時の出場メンバーの一人でもある現在の保存会会長は、「本家の『桝踊り』を目の当たりにし、話には聞いていたが、自分達の踊りが淡路島からの移住者によって伝えられたことを、この時初めて実感した。」とのこと。

その後、残念ながら淡路島での伝承活動は途絶えてしまうのだが、旧三石町が母村である旧南淡町と友好市町提携を結び、交流を深める中で「桝踊り」の里帰りが実現する。延出郷土芸能保存会から送られたビデオテープを基に、賀集地区婦人会の方々が復活させ、「豊年桝踊り」として伝承活動が始まったのである。現在は同婦人会から、地域の小学校の総合学習へと引き継がれ、地元の小学生が伝承活動に取り組んでいるという。

他方、北海道・延出では、保存会会員が、地域の保育所や小学校で指導を行い、子ども達が発表会や運動会で地域の人々に踊りを披露する、という活動が長年続けられてきた。こうした地道な取り組みは、新たな世代の継承者を育て、地域の歴史と文化を伝え、そしてそれが地域の誇りとして共有されてきたのである。

地域の歴史を物語る遺産として、これからもこの「桝踊り」が世代を超えて受け継がれていくことを切に願う。

※ 「淡路豊年桝踊り」(新ひだか町指定無形文化財) の動画はこちら → youtu.be/7Yaa1UxYfBc…

                                                                                                             < 新ひだか町博物館 学芸員 小野寺 聡 >