Breaking News
Home » 地域の遺産 » 都市に眠る境界の痕跡【コラムリレー第24回】

都市に眠る境界の痕跡【コラムリレー第24回】

帯広市は碁盤目状に道路が走る都市だ。開拓期より道路や都市区画が計画的に整備され現在にいたっている。しかし奇妙なことに、市内にはちょっと道路がずれているところがある。下の写真をご覧いただきたい。市内東4条南13丁目付近の交差点だ。googlemapで確認するとこのようにになる。この交差点、車で移動する分には全く問題なく、往来も頻繁である。しかし、なぜこのような「ズレ」が生じたのだろうか。

平成27(2015)年8月3日の交差点の様子(大和田撮影)

平成27(2015)年8月3日の交差点の様子(大和田撮影)

 

十勝地方の殖民地区画の策定事業は明治25年5月に開始された。区画割りの基点になったのが、現在の帯広市総合体育館前の交差点である。この地点は、帯広市の市街地区画を設定する際にも同じく基点として用いられた。結論を先に述べるが、先ほどの道路の「ズレ」は市街地区画と殖民地区画との違いによって発生したものだ。詳しく見ていこう。

農地とするための殖民地区画は300間四方を一区画とする。基線・基号など基準になる道路は幅8間、区画の間には幅6間あるいは4間の道路を設定し「一線」「二線」と数える。一方、住宅などを配置する市街地区画は60間で四角く区切り、区画どうしの間の道路幅は11間とした(大通りは15間)。こちらは「一丁目」「二丁目」と数える。

先ほど写真で見た東4条南13丁目は、ちょうど市街地区画と殖民地区画との境界にあたる場所である。写真手前の道路が南13丁目の道路で、写真奥のシルバーの車がやってきた道路が南3線の道路。もともと異なる「ものさし」を用いて設定された道路だったために、「ズレ」が生じたわけである。帯広市図書館所蔵の昭和8年の地図がこのことを解りやすく伝えてくれる。色つきの部分が市街地区画で、色の無い部分が殖民地区画だ。今では都市が殖民地区画の範囲にまで連続しており二つの区画の境界は見えなくなった。しかし、かつてはここが市街地と農地との境目であった。写真の向こう側には、農地が広がっていたことだろう。

帯広市図書館所蔵「最新帯広市詳細図」(昭和8年作成)

帯広市図書館所蔵「最新帯広市詳細図」(昭和8年作成)

本来ならば、市街地区画の道路と殖民地区画の道路とが接続することはない。しかしこの南13丁目と南3線は、たまたま同じような位置にあったために、多少の「ズレ」はあるものの連続した道路として活用され、現在に至っている。ちょっとややこしいが基線からの距離を計算してみよう。まずは市街地区画。基点から数えて、南13丁目は60間の区画が13個、幅11間の道路が13本ある。60×13+11×13=923間。次に殖民地区画は、南3線は道路幅を4間と仮定して300間区画が3つ、道路が3つだから300×3+4×3=912間。その差11間(20メートル)。だいたい合っているだろう。

このように、この「ズレ」た道路は、本来繋がるはずのない場所がつながってしまった奇妙な場所だ。本当に何気ない場所だけれども、市街および殖民地の設定や、その後の都市の急速な広がりを考えるうえで重要な場所と言えるだろう。

最後に、この道路が境界であったことを示す名残について紹介する。交差点を「ズレ」ながら南3線を直進してしばらく行くと、右手に帯広墓地が現れる。明治29年に設置された帯広最古の墓地だ。市街のはずれ、農地との境界ゆえに、この場所に設置されたのだろう。現在では成長した都市に囲まれている。

この後、帯広市は昭和29年に緑ヶ丘墓地を川西村との境界域に設置。緑ヶ丘墓地も、川西村との合併と都市の拡大があり現在は周囲に住宅が建ち並ぶ。そして昭和45年供用開始のつつじヶ丘霊園は芽室町との境にある。平成14年供用開始の中島霊園は音更町との境に設置されている。いずれも墓地は境界に設定されるのだろう。

<帯広百年記念館 学芸員 大和田努>