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厚真町内に残る戦争遺跡「トーチカ群」が伝えるもの   【コラムリレー第47回】

はじめに

私は、北海道胆振管内東部、苫小牧市とむかわ町、安平町に隣接する厚真町の学芸員で、普段は遺跡の発掘調査、考古学を専門としています。いつもは、数千年前の縄文時代から数百年前の北海道の先住民族であるアイヌ民族が残した住居跡や土器や石器、鉄鍋や刀子類などを発掘調査し、記録保存(残す)、活用(伝えるなど)を進めています。

今日は、もっと身近なたった?68年前の太平洋戦争のことについて、厚真町内に残る戦争の傷跡「戦争遺跡」のうち「トーチカ」を中心にお話しさせて頂きます。この機会に厚真町の残したい「戦争遺跡」から戦争と平和について考えて頂ければ嬉しい限りです。

 

 

1.トーチカとは?なぜ厚真町なのか?

ロシア語が語源で「 долговременная огневая точка」。日本語では「特火点」と訳されていたコンクリート製の箱の中に機関銃や歩兵砲などの火器類を収め、侵攻する敵への防御線となる最前線の軍事施設です。ノルマンディ上陸作戦の一部を描いた映画「プライベート・ライアン」でも、最初の壮絶な戦闘シーンでもこのトーチカに行く手を阻まれている様子が分かります。

トーチカは、敗戦が色濃くなりだした昭和19年、第77歩兵師団(稔部隊・15,015人・師団本部は早来)によって、厚真町を中心とした苫小牧市やむかわ町の海岸部一帯、勇払平野に数多く構築されました。当時敵対していたアメリカ合衆国などの連合国軍の道都札幌への侵攻と当時、苫小牧と千歳のそれぞれに2箇所ずつあった飛行場を占領し、本土空襲への拠点となるのではないかと危惧したためです。ちょうど、この地域は砂浜海岸が続くため上陸用舟艇の接岸に適し、地理的にも札幌へのほぼ最短距離に当たるため重要視したものと思われます。なお、今回のトーチカの他に戦車壕も構築されています。47-01

太平洋戦争末期に想定されたアメリカ軍の北海道侵攻作戦

 

 

2.厚真町内にたたずむ「トーチカ」

勇払平野の苫小牧市東部、厚真町、むかわ町の海岸部一帯には、47基のトーチカが構築され、うち14基が厚真町域にあたります。しかし、昭和50年代前半に海岸部に構築されたトーチカの多くが破壊撤去され、現存しているのは全体でわずか13基となっています。

現在、厚真町域には5基、隣接する苫小牧市東部工業地帯(以下、苫東地区)内も合わせ7基があり、その多くは、海岸から2kmほど内陸部に入った台地縁辺部に構築されたものです。当時、防御線として上陸する敵軍を水際で攻撃し、札幌方面へ侵攻する敵を側面から攻撃するために内陸部にも構築されました。これらの場所は耕作地や工業用地の緑地保存帯として開発を免れた場所であり、その多くは道路から離れ、人目につかぬ林の中に点在しているものが殆どです。ある意味、「保存」という意味では良好な立地条件とも言えます。今回は厚真町域に残る3基のトーチカを紹介いたします。

なお、トーチカの平面及び断面実測図は香川昭八2001『太平洋戦争当時の勇払平野の防御陣地』苫小牧市博物館より引用しています。

勇払平野の残存トーチカ数

市町村

苫小牧市

厚真町

むかわ町

合 計

1945年

25 基

14 基

8 基

47 基

1997年

7 基

7 基

5 基

19 基

2013年

4 基

5 基

4 基

13 基

 

【鹿沼南西トーチカ】

道道上厚真鵡川線より700mほど砂利道を入った採草地の脇にあります。当時は偽装(カモフラージュ)と防弾のため土砂が被覆していたのでしょうが、草地造成の際に周囲の土砂が削除されトーチカ本体が露出しています。私がオフロードバイクで散策中に偶然にも見かけたトーチカで、こんな内陸部の立地に驚くのと同時に50年以上も前、当時の方々の緊張感と必死な思い、また構築時の苦労を思い、30分くらいこの場所でゆっくりしていた記憶があります。

このトーチカは地域の現存するトーチカとしては標準的なサイズであり、地上外寸法で長軸10m×単軸6.5m×高さ3.1mです。内部には砲身が1.3m、口径75mm、最大射程6,300mの四十一式山砲が据え置かれていたようです。現在は砲座中心の木製の軸が残っています。また、銃眼と反対の出入り口側に弾薬庫があり、天井には2ヵ所の換気孔も設置されていました。

47-02遠景(写真中央)

47-03

近 景 

47-04

正面(銃眼方向)

 

 

 

 

 

47-05

 

 

 

背面(出入り口方向)

47-06

鹿沼南西トーチカ

 

 

【厚和トーチカ】

厚和地区「共和コンクリート」工場付近のもので、近くの畑より300mほどの位置にあり、5月下旬に踏査したものですが、かなり苦難する藪をこいでいきます。銃眼部分は埋もれかけていますが、ほぼ当時の状況を残しています。アクセスに困難なため、人の出入りが無く、保存状態も良好なトーチカでした。まさに人々の記憶からも忘れ去られている状態です。

47-07厚和トーチカの近景

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換気筒

(手前は伐採時に倒されたようです。)

 

 

 

 

 

47-09銃眼部分

 

 

 

 

 

47-10

内部(出入り口側から撮影)

 約70年前どんな思いでこの中に篭っていたのでしょうか。

 47-11

 厚和トーチカ

【共和トーチカ】

このトーチカは、苫東緑地保存帯の中にあります。普段は、敷地内立入禁止の区域ですが、現存する厚真町内のトーチカで最も知られているトーチカです。それは、後ほどご紹介いたします。立入には株式会社苫東の許可を得て見学することができます。このトーチカは、海岸平野に面する標高20mの台地上に構築され、付近の高台からは道内最大規模の苫東厚真火力発電所や日本海航路のフェーリー発着所の周文埠頭のほぼ正面に当たります。

このため、上陸してくる敵を遠くから監視することができます。またこの周辺には、塹壕や監視壕など付随する当時の施設の痕跡が地表面に窪んで残っており、当時の状況を容易に想像することができます。

コンクリートが剥がれ落ちた部分にはレールや角材などが見える部分もあり、これらのトーチカが無筋の貧弱な強度であったことも分かります。戦争末期には戦闘員を守るべき施設にさえ、鉄を使うことができないほどに国内の物資が不足していたことも伝えてくれます。

また、内部には石炭ストーブがあり、戦後開拓に入植した方が住居として利用されていたそうで、モノが無かった終戦直後の歴史の一部とも言えるのではないでしょうか。戦争施設は平和な時代になると“無用の代物”となることが多いのですが、居住域などに隣接するトーチカは現在でも、物置として利用されているものがいくつかあります。

47-12正 面

47-13内部(出入り口側から撮影)

 

 

 

 

47-14

鉄筋として利用されたレール

 

 

 

 

47-15周囲の交通壕・監視壕跡

 

 

3.残し伝えたいトーチカ

41歳の私よりも年上の方ですと、「浜厚真の砂浜にあった四角い箱」と記憶している町民もいますが、山林に佇むトーチカや張り巡らされた塹壕跡の存在を知っている方はほとんどいません。と同時に68年前の戦争についての記憶を持っている方も急激に減ってきています。そのような中、どの様にして「戦争」を伝えるか・・・。戦後二世の自分自身も真剣に考えていかなければならない大切な歴史でもあります。

この取り組みの1つとして厚真町では、地元の厚南中学校の先生たちが、社会科の近代史の授業に取り込み、この現地へ生徒と共に見学に来ています。この時、昭和20年7月14日・15日の北海道空襲の際に厚真では、死者3名、負傷者1名の人的被害を被っています。この時の米軍戦闘機による機銃掃射を目撃した方に講師としてご同行頂き、その時の実体験や戦時中のモノ不足、助け合いの生活、勉強をしたくてもできなかった事、戦後の進駐軍との思いでなどをトーチカの前でお話ししてもらっています。お話してくださる方への生徒たちの眼差し、表情は真剣そのもので「初めて知る身近な歴史」に記憶として留めてくれているものと確信しています。

また私の方からは、トーチカが所在する山林に入る前に生徒たちに沖縄戦の写真パネルを使ってトーチカの説明を行います。「もし、終戦が1年、2年遅かったら、どうなっていたのか。実際に当時の敵対国アメリカ軍の上陸作戦が実施されていたら・・・。」その様な事実を知ったうえで、現地に佇むトーチカを見てもらっています。このトーチカから「沖縄の人たちの苦しみ」を学び、テレビの画面から流れる遠い南の島の出来事ではなく、その背景、歴史を踏まえたうえで、考え感じ取ってもらうことも、子どもたちに伝えるようにしています。

さらに昨年8月には一般の方々を対象とした戦争遺跡見学ツアーをむかわ町教育委員会と連携事業として実施いたしました。周知期間が短く、参加人数は少なかったのですが、「自分の住む町にも戦争を伝える遺跡があるとは知らなかった。風化している戦争の歴史。平和な世の中の有り難さを伝える財産であり、知り合いにも教えたい。」とのご感想をいただきました。クチコミで少しずつかもしれませんが、より多くの方々に伝わっていくことを願い、休日を使ってでも草刈りなどの維持作業を続けていきたいと思っています。

 

47-16トーチカ前で厚真の空襲体験を聞く

 

 

 

 

 

47-17沖縄戦のパネルで「68年前の戦争」を知る

 

 

 

 

 

47-18

昨年8月に実施した一般の方々を対象とした見学会(共和トーチカ)

47-19

 

 

共和トーチカ内部を見る参加者

47-20

 

掩蔽壕・交通壕の解説

藤原康成さん、工藤肇さんにも解説を頂きました。学芸員の先輩たちのご協力で参加者へのより良いサービスが提供できたと思います。感謝申し上げます。

 

 

 

※見学に際し事前に株式会社苫東の許可を得ています。

 

 

おわりに

戦後68年を経過し、8月15日の終戦記念日すら知らない若者が5割近いというアンケート結果も出ているそうです。今の平和な世の中、この有り難さを実感するためにも戦争という「負の歴史」にも向き合う、伝える財産としてこれらのトーチカの存在価値が生まれ変わろうとしているように思います。そのためにも、私たち学芸員は専門分野を持ちながらも、地域に残る様々な歴史や自然環境の仕組みを学び、モノと人の間に立ち、より良い未来へつなげるヒントとして、その価値を伝えていくことをトーチカから学んだ気がします。そこには、単にモノだけではなく、関わった、体験した方の記憶や体験そのものも大切な歴史であることも実感いたしました。学芸員一人だけではなく、道内、全国の仲間の地からを借りて、また共感してもらえる地域の仲間も大切です!

厚真町のトーチカは、見学された方々にはもちろん、私自身にも平和の有り難さを考える機会を与えてくれました。これからも、残し、伝えていきたい地域の財産です!

 

(厚真町教育委員会 学芸員 乾 哲也)

 

※ 画像配置がうまくいかず、見苦しいレイアウトをお詫び致します。

※ 見学の際には事前に土地所有者の立ち入りの許可などが必要となりますので、各個人での判断に委ねます。また、鬱蒼とした草薮の中にあるため、目立つ服装で行動や転倒、狩猟誤射、ヒグマとの遭遇などの事故や怪我のないように心がけましょう。

※共和トーチカなど、苫東敷地内のトーチカについては、株式会社苫東様から草刈りや所有地立ち入り許可などのご協力を頂いております。また、これらの活動について日頃より、むかわ町教育委員会 学芸員 田代雄介様、元苫小牧市博物館長 佐藤一夫様、苫小牧市科学センター藤原康成様、元苫小牧市勇武津資料館 工藤 肇様、浜厚真在住 山田 稔様よりご指導ご教示を頂いていますことも、記して感謝申し上げます。

 

 

引用・参考文献ほか

厚真町遺族後援会記念誌編さん委員会 1995 『鎮魂』

香川昭八 2001 『太平洋戦争当時の勇払平野の防御陣地』 苫小牧市博物館

工藤 肇 2009 『ふるさと歴史探訪配布資料 幻のトーチカを訪ねて』勇武津資料館

佐藤一夫 1996 「苫小牧の太平洋戦争遺跡~ベトン製トーチカを中心として~」

『研究報告』6 苫小牧市博物館

藤原康成 2006 『ふるさと歴史講座テキスト 旧沼ノ端飛行場とトーチカ』

勇武津資料館

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