日本人の食文化には欠かせない伝統的な食材として、今も昔も変わらずに大切に扱われている昆布。時には「よろこぶ(慶ぶ)」に通じる縁起物として、神事や仏事などに大切なお供えものとして昆布が登場する光景を目にします。
現在、日本国内で採れる昆布の約95%が北海道沿岸で採れており、北海道のコンブ漁業が日本の食文化、伝統文化の一端を支えていると言えます。また、道内漁業者の半数以上がコンブ漁業に従事しており、漁獲金額においてもコンブ漁は、ホタテ漁・サケ漁に次いで多く、ともに北海道の三大基幹漁業と呼ばれています。
このように北海道の漁業の中で重要な位置を占めるコンブ漁業ですが、現在の姿に至る背景には、明治期の宮部金吾博士による調査研究が大きく寄与しています。
<宮部金吾博士と明治期の北海道水産調査>
宮部博士は、札幌農学校二期生として内村鑑三や新渡戸稲造とともに学び、1883(明治16)年に農学校の助教となって以来、一貫して植物学の教育・研究に専念しました。その学問的領域は菌学、植物病理学、植物分類学、植物地理学、樹木学、アイヌ植物学など、実に幅広い分野にわたり、研究対象も陸上の植物にとどまらず、海藻類にも及びました。
宮部博士の北海道産コンブ類の本格的な研究は、1893(明治26)年に北海道庁から「海藻種類鑑定」を嘱託された時から始まります。このころ国では、農商務省水産局が、国内の漁業生産の振興、水産業の発展のために、全国的に水産調査を実施しており、本道においては、北海道庁内務部水産課により1889(明治22)~1894(明治27)年にかけて同様に調査が行われました。
これらの調査では、調査項目が海岸の地勢、海底の地形、潮流、漁獲対象となる魚種、漁場、漁獲方法などに及び、宮部博士がコンブ類の調査を任されたのもこれらの調査の一環でした。
とりわけコンブについては、北海道の重要な海藻資源でありながら、それまで詳細な調査研究が行われていなかったため、北海道の沿岸各地に実際に足を運び、コンブを採取して観察を行うという、実地調査が必要でした。
宮部博士は、1894(明治27)年7月9日から8月29日まで、52日間に及ぶ道内コンブ調査旅行を敢行します。今から120年も前の、開拓途上の北海道です。現在の様な快適な交通手段も宿泊施設もありません。当時の日記には、宿で毎晩蚤に悩まされたといった記述もあります。今では想像がつかないような困難な旅だったようです。
北海道庁による調査は、1892(明治25)年に「北海道水産予察調査報告」が刊行され、続く本調査報告として、1895(明治28)年に「北海道水産調査報告 巻之一 鱈(たら)漁業」が、翌年には「巻之二 鰮(いわし)漁業」が、そして1902(明治35)年には「巻之三 昆布採取業」が刊行されます。
<コンブ類の分類集大成の成果>
この「北海道水産調査報告 巻之三 昆布採取業」において、宮部博士はこれまでの調査研究の成果を、「第一編昆布科」として発表します。この報告の中で、北海道(千島の一部を含む)沿岸のコンブ科植物の外部形態や内部構造の特徴、分布などが一種ごとに詳しく記載され、その分類が初めて集大成されました。このことは、学問上の大きな成果であったばかりでなく、現在に通じる北海道のコンブ漁業に大きく貢献することとなりました。
当時のコンブ漁業では、本来同じ種類のコンブでありながら、採れる場所によって呼び名が異なっていたり、反対に違う種類のコンブでありながら、採れる場所によって呼び名が同じであったりと、混乱した状況が生じていたのですが、道内沿岸各地で行った実地調査に基づいて、コンブの特徴に従って名前と分布域(生産地)を整理していくことで、この問題が解決されたのでした。
これにより、北海道の開拓が進むにつれて次第に混乱してきたコンブ漁業が再編成され、あわせて、昆布の製品名と品質の統一が図られることで、流通の改善に繋がりました。
<120年前の昆布浜のようす>
なお、「巻之三 昆布採取業」では、第二編で昆布漁場と漁業について、第三編では昆布製品の成分分析についてまとめられています。このうち、特に第二編では、漁場である昆布礁のようす、コンブ採取に用いる器具類、採取方法、生産量、昆布製品の製造など、生産地ごとに詳細な記述があり、当時のコンブ漁業の実状を垣間見ることができます。昆布浜と呼ばれる現在の昆布生産地の120年前の姿が彷彿とされ、非常に興味深い資料です。
参考文献
川嶋昭二 1996 「宮部金吾著 北海道昆布調査旅行日記」『地域史研究はこだて』24 11~49
北海道庁殖民部水産課 1902 『北海道水産調査報告 巻之三 昆布採取業』
<新ひだか町静内郷土館 小野寺 聡>