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北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ【コラムリレー第27回】

網走には数年前まで、北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニがあった。網走川が大きく蛇行した大曲とよばれる地域に、丸太を組んだような建物と、その脇の白いテントがひっそりとたたずんでいた。

北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ(以下ジャッカ・ドフニ)は、樺太(サハリン)に暮らしてきたウイルタ、ニブフ、樺太アイヌの資料館である。なおジャッカ・ドフニとは、大切なものを収める家を意味するウイルタ語である。

日露戦争後のポーツマス条約(明治38年/1905年)でサハリン島の北緯50度以南は日本領に、以北はロシア領にと決められた。そして日本領となった範囲にたまたまいた少数民族は(樺太アイヌの事情は異なる)それ以降日本の影響を強く受けることになった。

樺太アイヌをのぞく少数民族の多くが、敷香(現在のポロナイスク)郊外のオタスとよばれた地域に暮らすようになり、オタスには少数民族の子弟を教育する学校も作られた。若者たちは、日本の軍事訓練を受け、その関係からシベリアの収容所に送られることになる。戦後のサハリンでの少数民族の暮らしも、決して楽なものではなかった。

そしていろいろな事情から、北海道や本州へ移住してきた人たちがいる。その一人がウイルタのゲンダーヌさんであった。ゲンダーヌさんもシベリア抑留を体験したが、帰る先として樺太ではなく日本を選択し、舞鶴に降り立った。そこから紆余曲折を経て、網走で暮らすこととなる。

網走にきたゲンダーヌさんは、三つの夢を語った。「里帰り(サハリンの同胞との交流)」「戦没者慰霊碑の建立」そして「ジャッカ・ドフニの建設」である。自分たちの文化を残し、正しく伝えたい。その思いは、大勢の賛同をよび、1978(昭和53)年にジャッカ・ドフニはオープンした。ゲンダーヌさんは初代の館長に就任した。

設立にあたって網走市は土地を無償貸与し、多数の寄附金も寄せられた。寄附金は開館以降も寄せられ続け、非常に多くの方の支援によりジャッカ・ドフニは運営を続けてきた。少数民族が自ら博物館を設立し、情報発信をしていたことや、展示資料にふれることができるという、今で言うハンズオンのスタイルをとっていたことは特筆に値するだろう。

それから30有余年。ジャッカ・ドフニの運営を行ってきたウィルタ協会は、建物の老朽化等からジャッカ・ドフニの閉館を決定した。

取り壊す直前の北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ。窓の上につけられていた看板は、取り外して収蔵。

取り壊す直前の北方少数民族資料館ジャッカ・ドフニ。窓の上につけられていた看板は、外して収蔵。

問題はそれまでに収集してきた資料である。その多くが自らがジャッカ・ドフニの展示のために作ってきたものだった。

博物館の閉館それ自体はさほど珍しいことではない。いくつもの博物館や美術館が閉館している。一体そのとき所蔵資料はどうされるのか。閉館に直面したときのウィルタ協会の考えはただひとつ。それは、ジャッカ・ドフニの資料を分散させないということであった。

ところで、よく聞かれる、資料を分散させないとか、一括でということの意味は何だろうか。コレクションはただのものの集まりではない。一つ一つの資料にはストーリーがあり、集める過程自体にもストーリーがある。その重なりあいがコレクションの質をきめてゆく。一点も欠けることなく同じところに収蔵されることで、ジャッカ・ドフニの活動をコレクションとして残す際のレンジは最大となる。ウィルタ協会ではそう決議し、譲渡先を探った。

ジャッカ・ドフニから資料を搬出する。

ジャッカ・ドフニから資料を搬出する。

そして縁があって筆者が勤務する北海道立北方民族博物館にジャッカ・ドフニの資料全てが収蔵されることになった。いま現在、すぐにジャッカ・ドフニの資料を何かに使おうという予定はない。まずは整理作業である。資料館閉館という非常に残念なできごとのなかにあって、すべてを一括で引き継げたことに安堵する関係者の顔と収蔵庫に収まった資料をみていると、博物館のなかに別の博物館を残せるかもしれないという気さえしてくるのである。

<北海道立北方民族博物館 笹倉いる美>