新冠町に、一部の古老しか知らない古い地名があります。
それは、「会所前」という場所です。江戸時代、「新冠会所(または場所)」という松前藩が設置した建物が新冠の海岸にあり、その会所があった場所のことを会所前と呼んでいます。
幕府より蝦夷地交易権を得た松前藩は、蝦夷各地に「場所」を開設して支配を進めるようになりました。慶長年間、新冠においてもこの場所が設けられ、藩士とアイヌの人達が互いに物品を交換する交易の場として栄えました。その後、商人に運営を請け負わせ、一定の運上金をとる場所請負制へと発展し、名前も「運上屋」と改められました。18世紀後半頃になると、外国船も来航するようになったため、蝦夷地が幕府直轄領になり、運上屋も「会所」と名称が変わりました。
会所は、交易の執務を行う会所附を中心に、旅宿(舎)、蔵、馬の厩舎、魚小屋、社(神社)等があり、漁業を大規模に行っていた他、作物を栽培する畑もあったようです。流通、海産、畑作、旅宿、交通などあらゆる業務を併せ持つ、当時における新冠の中心地のような所だといえます。明治以降、会所は「本陣」、「旅籠屋」、「駅逓扱所」と名称を変え、旅人の宿泊、馬匹の提供、郵便などの業務を行っていました。明治15年には閉鎖となり、新冠場所から新冠駅逓扱所まで、実に200年以上にわたる会所の歴史に幕を閉じました。
この会所前付近に、今でも古い墓石が3基残っています。この墓石は、新冠会所に勤務していた武士のお墓で、天保や安政時代のものとなります。教育委員会では、この墓石に小屋を囲み、大切に保存しています。
新冠会所のことを知る人は地元においても少なくなり、「会所前」という地名もまさに失われつつあります。そのような意味でも、この3基の墓石と新冠会所跡の風景は、江戸時代の新冠を偲ばせるとても貴重な「地域遺産」といえます。
〈新冠町郷土資料館 学芸員 新川 剛生〉