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八雲の木彫り熊たち【コラムリレー第39回】

はじめに

北海道を代表するおみやげといえば木彫り熊!という時代がありました。実はその前には、「北海道観光客の一番喜ぶ土産品は八雲の木彫り熊」と昭和7年のアサヒグラフに書かれるほど全国的に八雲の木彫り熊が有名だったことがありました。

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日本海と太平洋に面する町、八雲

木彫り熊の発祥

八雲町で発祥した木彫り熊。それには、尾張徳川家第19代当主、徳川義親が大きくかかわっています。徳川農場の農場主で、1918(大正7)年からは八雲へ熊狩りをしに毎年のように訪れていた義親。そこで経済不況などの影響もあり、貧しい生活をしている農民の姿を目にしていました。

1921(大正10)年からヨーロッパ旅行に出かけていた義親は、スイスのベルンにて農村美術品(今でいう民芸品)を目にします。そこで義親は、冬の間は農作業ができない八雲において副業として農村美術品制作をおこない、販売すれば現金収入となり、生活の向上に繋がるのではないかと考え、いくつか購入して持ち帰ります。
この生活の向上には経済だけでなくもう一つ意味があり、「現在ノ農村ガ経済ノ上ニモ生活趣味ノ上ニモ甚ダ無味貧寒ナコトヲ感ゼラル」とまで書かれた当時の農村に美術という観念を持ち込むことで、農村の文化的な改善を行うことをも志していました。

義親の帰国後、大正12年5月に作品が八雲に届けられると、この農村美術を広めるため、翌年3月には、第一回農村美術工芸品評会が八雲で開催されます。

この品評会に、北海道第一号の木彫り熊が姿を現します。スイスの木彫り熊を参考として、八雲の酪農家である伊藤政雄が制作したものです。

八雲における品評会の成功や、八雲よりも早く山本鼎が進めていた長野県神川村の農民美術運動の例から、当時の経済恐慌のあおりを受けた農村の復興に副業を取り入れる動きが加速し、1928(昭和3)年頃までに日本全国に、それぞれの地方色ある工芸品を作る運動として、また農村生活の経済・文化を改善する運動として農村美術は広がっていきます。

八雲では様々な農村美術品を制作していましたが、1927(昭和2)年から木彫り熊を中心として作品を作るようになっていきます。1928(昭和3)年には農民美術研究会が徳川農場に作られ、様々な職種の人が制作に励みます。

原木の仕入れや販売ルート確保は徳川農場の職員が担当し、会員は制作に打ち込むことができる環境でした。なお、戦前の八雲においては、木彫り熊を「熊彫」として商標登録をおこなって、ブランドとして販売していました。

農民美術研究会で作られた初期の木彫り熊

農民美術研究会で作られた初期の木彫り熊

八雲における2つの彫り方

八雲で作られる木彫り熊は、彫り方で2つに分けられます。細かい毛彫りを施したものと、毛を彫らずに面で熊を表現したものです。前者については「毛彫り」と呼ばれますが、後者については「荒彫」「一刀彫」「ハツリ彫り」「カット彫り」と時代や作者によって呼び方が違っているので、後者については「面彫り」とまとめてここでは表現します。

まず毛彫りですが、これはスイスの木彫り熊の流れを汲むものになります。最初のうちこそ単純な彫り方をしていたものが、研究会で指導にあたった日本画家の 十倉金之(号:兼行) が、日本画の表現方法を取り入れた木彫り熊を彫ると、それが八雲における繊細な毛彫りの発祥となります。

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八雲の毛彫りの熊の特徴である、前足の肩の盛り上がった頂点から、四方八方に毛が流れる「菊型毛」を最初に彫り始めたのも、この十倉と考えられています。

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十倉自身もどんな毛彫りがよいのか試行錯誤していたようで、菊型毛でない木彫り熊も残されています。

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一方、面彫りの熊を彫り始めたのは誰かはっきりしませんが、 柴崎武司(号:他化志)または 柴崎重行(詳しくは後述)と思われます。
この彫り方はスイスの作品群にはなく、八雲で生まれ育った、八雲独自のスタイルといえます 。

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農民美術研究会では、大勢の人が制作を行いますが、太平洋戦争が始まると木彫り熊はぜいたく品に指定され、売れなくなっていくとともに、制作者も激減し、研究会も1943(昭和18)年に解散します。また戦争後は農地解放によって徳川農場が解散したため、原木の調達や販売ルートの確保が難しくなります。

戦後の八雲の木彫り熊

そんな逆境でも、八雲で木彫り熊を彫り続けた人が二人います。 その一人は 茂木多喜治(号:北雪) です。

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昭和天皇に木彫り熊を献上したことをきっかけとして1935(昭和10)年頃から木彫り熊制作を専業とします。山を歩くのが趣味で、熊を鉄砲で撃って解体して筋肉の付き方や関節の可動範囲を調べて木彫り熊制作に生かしていました。

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十倉から始まる菊型毛にこだわって作品を制作しており、八雲の毛彫りのイメージを確立した人物といえます。そして公民館の木彫り熊講座にて講師を務め、次の世代である上村信光・引間二郎・加藤貞夫といった人たちを育てました。

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戦後に制作を続けたもう一人は、 柴崎重行(号:志化雪・志化・志) です。
柴崎は木彫り熊制作家というよりは、木彫家として高く評価されています。

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農民美術研究会に所属する前から彫刻に興味を持っていて、研究会の第一回講習会から参加し、講師の十倉と親交を持って制作に励んでいました。 このころは毛彫りや面彫りの熊を彫っていて、毛彫りのマスクで1931(昭和6)年の第7回道展に入選するほどの腕前でした。

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その後、自分の彫り方を追求し、研究会を脱退し制作に励んで、面彫りの中でもハツリ彫りと呼ばれる、斧で木を割っただけのような作品を作るようになります。

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彼の制作場は八雲の山の中で、市街地に下りてくることも稀という生活をおくっていたそうです。

なお、昭和元年から旭川においても松井梅太郎によって木彫り熊が制作されはじめますが、それがさらに隆盛するきっかけとなったのが、柴崎が自分の彫った熊がどれだけ自然の熊に似ているかその生態を観察することの多いアイヌに率直な意見をもらうため、自分が彫った木彫り熊4体をもって旭川近文を訪れ、それらを置いてきたことによる、ともいわれています。

近年の製作者たち

茂木から指導を受けた人はたくさんいますが、作品が多く残っている3人を紹介します。

まずは 上村信光(号:信光) 

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上村は、茂木を講師とした第一回の木彫り熊講座から参加し、熊だけでなく様々な動物を彫るとともに、いろんな動きのある熊を彫った人です。また茂木のあとを継いで公民館講座の講師としても活躍しました。

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次いで、 引間二郎(号:木歩) 。

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柴崎と家が近く、柴崎からも教えを受けたそうです。上村のあとに3代目の講師として活躍しました。太くて短い毛彫りを行うとともに、面彫りの作品も多数残しました。

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最後に、 加藤貞夫(号:加藤) 

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茂木が制作しているのをじっと傍らで見つめ、その技術を学びました。細くて繊細な毛彫りを行うことが特徴です。また面彫りの作品も多く残しています。

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おわりに

八雲を代表する農村美術・木彫り熊は、北海道を代表する民芸品・木彫り熊へと成長します。昭和30~40年代の北海道観光ブームでは大量に制作・販売されることはありませんでしたが、確実に受け継がれてきた八雲の木彫り熊。今では木彫り熊を彫る人自体、道内で激減しており、八雲町においてもごく少数の人が趣味として彫っています。この伝統を絶やさずに次へと伝えていきたい。
八雲町郷土資料館では「八雲木彫り熊展示室」をオープンし、スイスの木彫り熊・北海道第一号の木彫り熊から、最近の木彫り熊まで、八雲の木彫り熊を紹介しています。
また今後は、八雲だけでなく、北海道全体の木彫り熊の歴史についても調査し、展示していきたいと考えています。

(参考文献)

浅尾一夫 『八雲の熊彫りと柴崎重行の作風について』

大石勇 『伝統工芸の創生 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』

大島日出生 『熊彫』

徳川義親 『最後の殿様』

徳川義親 「私の履歴書」 『私の履歴書 第20集』

吉村博道 『木塊 柴崎重行の心』

<八雲町郷土資料館 大谷茂之>

次の投稿は新ひだか町静内郷土館の小野寺聡さんです。お楽しみに!