Breaking News
Home » 北海道で残したいモノ、伝えたいモノ » 室蘭の戦跡 【コラムリレー第38回】

室蘭の戦跡 【コラムリレー第38回】

はじめに

一般的に戦争遺跡(以下「戦跡」)は、明治期以降の戦争に関する構造物や跡地等を指します。

 

室蘭は明治期から北海道を代表する工業都市であったため、太平洋戦争中に空襲と道内唯一の艦砲射撃を受けました。そのため、市内には軍事構造物や防空壕跡地がわずかながら残り、空襲・艦砲射撃等に関する当時の様子も語り継がれ、数多くの慰霊碑も残されています。

 

今回ご紹介する市内4ヶ所の戦跡は、太平洋戦争に関するもので、慰霊碑も含んでいます。

 

 

「十五加農砲掩体跡」(じゅうごせんちかのんほうえんたいあと)

昭和20年[1945]、室蘭港の入口がある噴火湾から侵入する敵の艦隊を想定し、その迎撃のため、十五糎加農砲(口径が15cmの大砲)を収める掩体(コンクリート製の蔽い)2基(予定3基)を、北部軍管区司令部稲木隊約300人が、約4ヵ月かけて構築しました。2基の掩体は山の斜面に対し、横向き上下に配置され、噴火湾の対岸にあたる森町方面に向いています。現存するのは斜面下段の掩体だけですが、砲を2門据え付けたのかは不明です。

 

戦後、この掩体はかぶせた土を取り除き、内部を住居として改装し、住宅として昭和50年代まで使用されました。当時の新聞等では戦争遺物の平和利用として、紹介されていました。

 

十五糎加農砲掩体跡

十五糎加農砲掩体跡

 

 

「防空壕跡」

市内では昭和16年[1941]から、町内会の勤労奉仕等によって公共用防空壕が造られ、各家庭や企業等でも待避壕や防空壕が設けられました。

 

写真の防空壕は横穴式で、入口付近の高さが約3.3m、横7m、奥行き数10mあり、戦後は水族館となった敷地内に残されています。この場所は水族館やその前に捕鯨会社があった事などから、昭和33年、この防空壕を利用して高さ2.2mの魚藍観音が安置されました。

 

昭和41年には、壕の入口付近をコンクリートブロックで囲んだものに造り替え、現在まで室蘭割烹調理師睦会が魚鳥供養を行っています。

防空壕跡と魚藍観音

防空壕跡と魚藍観音

 

 

「第一華工収容所跡地」

戦争末期、国内の労働者不足を補うため、中国や朝鮮半島から多数の人たちが連行されました。

 

昭和19年[1944]、室蘭には約1,800人の中国人が連行され、日本港運業会室蘭第一華工管理事務所等、5ヶ所の収容所に配置されました。室蘭の各収容所では石炭や鉄鉱石、木材や木炭等の運搬労働を強いられ、終戦までに約560人が亡くなりました。

第一華工収容所跡地(旧港の文学館)

第一華工収容所跡地(旧港の文学館)

 

 

「我此土安穏」の碑(「がしどあんのん」のひ)

室蘭では戦後、東京から力士一行が相撲部屋別に数回来蘭し、戦災戦没者追善供養のため、土俵入りや相撲が行われました。

 

艦砲射撃の被害が大きかった輪西地区では、昭和24年[1949]7月14日、東京大相撲一行の横綱照国、横綱羽黒山の土俵入り後、市内各寺院の僧侶・遺族も参列し、戦災死没者五周忌追善供養が行われました。その際、同地区の立雲寺林舜祥住職が建立した碑とされています。

 

題字の「我此土安穏」は法華経の一節で、揮毫と石碑に残る手形は照国によるもので、碑の高さは約130cmあります。

 

「我此土安穏」の碑

「我此土安穏」の碑

 

おわりに

今回、軍事構造物や防空壕跡、収容所跡地に関するもの、空襲・艦砲射撃に関する慰霊碑に分けて室蘭の戦跡の一部をご紹介しました。

 

軍事構造物として残るものは少ないですが、市内各所に残る高射砲等の陣地跡地、防空壕跡地や収容所跡地、個人や団体等で建立された慰霊碑等の戦跡と、体験者の証言は、戦争の悲惨さと平和の大切さをこれからも伝えてくれると思います。

 

戦後70年が近付き、戦争の記憶が遠いものになっていますが、室蘭では夏に市内の戦跡をバスで巡る「戦跡巡り」を行っています。参加者は身近な場所に戦争関連の場所があったり、当時と周囲の様子が変わっていることに驚いたりしていますが、この戦跡の見学会が、平和について考える機会になることを願っています。

 

<室蘭市民俗資料館 谷中 聖治>

来週の投稿者は、八雲町郷土資料館の大谷茂之さんです。お楽しみに!