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「北海道」とアイヌ語地名 【コラムリレー第7回】

私たちの住むこの土地に「北海道」という名称がつけられたのは、ほんの144年前のことです。明治新政府になってまもない、明治2(1869)年8月15日に交付されました。名付け親は、松浦武四郎という人物です。

 

この松浦武四郎がどんな人物かというと…

武四郎は文化15年(1818)年2月6日、伊勢の国一志郡須川村(現在の三重県松坂市小野江町)の生まれで、後には探検家、画家、作家、地理学者として有名になった人物です。

松浦武四郎

松浦武四郎 『松浦武四郎記念館図録』1996より転載

 

生家

松浦武四郎の生家

 

彼は13歳からの3年間、平松楽斎に付いて儒学を学び、16歳の時から全国各地を旅して名所や旧跡を訪れ、その地の学者や文人を訪ねては幅広く学問を積んできました。そして28歳の時、初めて蝦夷地(現在の北海道)に渡り探査を行っています。その目的は、当時の蝦夷地がロシアをはじめとする外国からの侵略的危機にさらされていたためでした。そのような理由から、武四郎は14年間に全6回にもわたる蝦夷地や樺太(現在のサハリン)、国後島・択捉島などを探検します。

踏査(1回目) 踏査(2回目)

 

踏査(3回目) 踏査(4回目)

 

踏査(5回目) 踏査(6回目)

 

武四郎は、探査の行程でいつも道案内役としてアイヌの人びとの協力を得て、寝食を共にしながら各地の調査をすすめました。その結果、各地の地名についてもアイヌの人びとから詳細に聞き取ることができました。ですから、武四郎にとってアイヌの人びとは重要な恩人であり、一方のアイヌにとっても武四郎はもっとも信頼のできる和人となりました。

ちなみに、武四郎は現在わたしの住む平取町に安政3(1856)年10月3日と、安政5(1858)年7月1~4日に訪れています。そして武四郎はいつも持ち歩いていた野帳と筆で、風景や和歌、集落ごとの世帯数などを記録していきました。

下のスケッチは、武四郎が安政3年に初めて平取のポロサルコタンとヌッケベツコタンを訪れた際に野帳にスケッチしたものと、それから2年後に再び同じ場所を訪れ以前より詳細にスケッチしたものです。

ポロサルコタン(安政3年)ポロサルコタン(安政3年)

ポロサルコタン(安政5年)

ポロサルコタン(安政5年)

ヌッケベツコタン(安政3年)

ヌッケベツコタン(安政3年)

ヌッケベツコタン(安政5年)

ヌッケベツコタン(安政5年)

武四郎は、こうした長年の調査や探査で得た成果を『東西蝦夷山川取調日誌』や『東西蝦夷地理取調図』のほか、詳細な調査記録や地図として膨大な量の著述や出版物を残しています。そして、それが今もなお高く評価されるものとなっています。

 

武四郎が最後の蝦夷地探検を終えてから10年後の1868年、江戸幕府は終焉を迎えます。明治新政府の始まりです。この時期、国内ではますます北の国境線確定問題や土地の開拓問題など、蝦夷地への関心は高まります。そこで、その必要性から行政を司る機関が設置されることになり、明治元(1868)年7月に箱館府に代わり開拓使が新設されると、武四郎はただちに“蝦夷地開拓御用掛”に任命されます。そこで武四郎は、開拓使発足後の9日目にして「道名之儀につき意見書」を提出しています。つまり、蝦夷地を改称するにあたり、新しい名称を提案したわけです。その名称案は「日高見道」、「北加伊道」、「海北道」、「海島道」、「東北道」、「千島道」の6つです。ところが、この案の中に「北海道」はありません。「北海道」の名称は、明治新政府が「北加伊道」の“加伊”を“海”の文字に変えて決定したものだったのです。武四郎がこの“加伊”という言葉を使う元になったのは、アイヌの人たちが蝦夷地やそこに住む人たちを“カイ”と呼んでいることから、“この土地はアイヌの人びとが生活している国”という意味を込めたかったからに違いありません。ところが、明治新政府は蝦夷地を日本の領土としアイヌ民族の同化政策を進めるためにも、武四郎の意思とは別に「北海道」としたのでした。

 

話は脇にそれますが、某電気通信会社のコマーシャルに登場する“白戸次郎”という白い犬は、アイヌ犬(現在は“北海道犬”と呼ぶ)です。その白戸次郎の本名も“カイ”と言います。つまり、“カイ”という言い方は、古い時代には“アイヌ”を意味しているのです。

 

話を戻します。

武四郎は、「北海道」の名称のほか、支庁名や郡名などの選定と区画も以下のとおり提案し、11国86郡が決定しています。松浦武四郎が「北海道の名付け親」と呼ばれる所以はこういうところからもみられます。

『渡島国』:亀田郡・茅部郡・上磯郡・福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡

『後志国』:久遠郡・奥尻郡・太櫓郡・瀬棚郡・島牧郡・寿都郡・歌棄郡・磯屋郡・岩内郡・古宇郡・積丹郡・美国               郡・古平郡・余市郡・忍路郡・高島郡・小樽郡

『石狩国』:石狩郡・札幌郡・夕張郡・樺戸郡・空知郡・雨龍郡・上川郡・厚田郡・浜益郡

『天塩国』:増毛郡・留萌郡・苫前郡・天塩郡・中川郡・上川郡

『北見国』:宗谷郡・利尻郡・礼文郡・枝幸郡・紋別郡・常呂郡・網走郡・斜里郡

『胆振国』:山越郡・虻田郡・有珠郡・室蘭郡・幌別郡・白老郡・勇払郡・千歳郡

『日高国』:沙留郡・新冠郡・静内郡・三石郡・浦河郡・様似郡・幌泉郡

『十勝国』:広尾郡・当縁郡・上川郡・中川郡・河東郡・河西郡・十勝郡

『久摺国』:足寄郡・白糠郡・久摺郡・阿寒郡・網尻郡・川上郡・厚岸郡

『根室国』:花咲郡・根室郡・野付郡・標津郡・目梨郡

『千島郡』:国後郡・択捉郡・振別郡・紗那郡・蘂取郡

 

 

さて、このほかに北海道地名にも少しだけ触れておきたいと思います。

北海道の市町村名や地域の名称のほとんどは、アイヌ語名から由来しています。このようなアイヌ語を起源とする名称には、当時の地形や特徴などが反映されて付けられたものが多く残されています。たとえば道都、「札幌」は“サッ(乾く)・ポロ(大きい)・ナイ(川)”といって、元来は豊平川の古名から由来しています。また、最北の地、「稚内」はと言うと“ヤム(冷たい)・ワッカ(水)・ナイ(川)”の“ヤム”が省略されて呼ばれるようになったようです。私が住む「平取」は“ピラ(崖)・ウトゥル(間)”といって、崖に挟まれたところであることを意味しています。さらに、隣町の日高町門別は“モ(静かな)・ペツ(川)”という意味です。また、白老町のポロト湖も“ポロ(大きい)・トゥ(沼)”となるわけです。つまり、北海道内のほとんどの場所には、「北海道」という名がつけられる以前からアイヌ語由来の地名がありました。

近年、平成の大合併により北海道の市町村数は212から179に減少しました。そして、残念ながらアイヌ語由来とは関係ない自治体名も増えてきています。しかし一方で、現在でも無意識にアイヌ語由来の名称を使用しているものもあります。たとえば、むかわ町の特産品で有名な「ししゃも」や、数年前に“クーちゃん”で親しまれた「ラッコ」もアイヌ語なのです。

 

「北海道で残したいモノ」、それは北海道遺産でもあるアイヌ語地名です。そして是非、大切に守っていきたいものです。

<沙流川歴史館 森岡健治>

 

次回は、小樽市総合博物館の佐藤卓司さんの投稿です。ご期待下さい!