北海道の日高地方には、日本百名山の一つ「幌尻岳」があります。その幌尻岳から流れ出る額平川(ぬかびらがわ)の支流には、国内でも希少な岩石であろう“アオトラ石”の露頭が見られます。“アオトラ石”とは緑色岩の一種ですが、「青みがかった縞状の模様」を持つことから、地元では古くから俗称で呼ばれています。
その露頭を観察すると、枕状溶岩・塊状溶岩(写真1)や層状火砕岩(写真2)、ピクライト(マントルの組成に近い、特異な溶岩)など、海底火山の岩種で構成されていることがわかります。つまり、まだ北海道や日高山脈が形成される以前に、海底火山噴出物で構成されたものが標高350~400mの露頭で見られるというわけです。
その露頭から転石となって沢に流れ出たアオトラ石は、露頭に近いほど大きな縞模様の庭石として利用されたり、沙流川本流に合流するまでの間に小さな転石となったものは、次第に硬い淡緑色層と柔らかい濃緑色層の凹凸が顕著なものとなって観賞石として重用されています(写真3)。
こうした庭石や観賞石は、平取町一帯では昭和30年代末頃から親しまれ、昭和40年(1965)1月には『二風谷銘石保存会』が誕生します。そして、次第に沙流川観賞石として本州方面まで販路を広め、昭和47年(1972)には8割ほどが津軽海峡を越えるまでになり、現在でもこの庭石・観賞石を生業とした人々が販路拡大に努め、「沙流川銘石」を守っています。
ところが、近年、考古学の世界では、このアオトラ石が縄文時代から石斧の素材として使用されていることがわかってきました。とりわけアオトラ石の淡緑色層部分が、磨製石斧と同じ構成鉱物種と特有の組織をもつようです。
石斧に使用される石材は、これまで神居古潭峡谷から産出する青色片岩や蛇紋岩、角閃岩、あるいは緑色片岩や在地の緑色泥岩など、比較的身近な場所から得られる石を材料としていたと考えられていました。しかし、こうしたもののなかに相当数のアオトラ石が含まれていたのです。
「アオトラ石」は見た目の美しさのほか、適度な粘りと研磨のしやすさに特徴があります。そのため、擦切り石斧や磨製石斧の製作に適しており、折れにくさもあります。
アオトラ石は日高山脈の造山運動が生んだ変成岩の一種といえますが、旭川の神居古潭峡谷からえりも町の襟裳岬にかけて圧力と温度の違いによって異なる岩石ができたため、そのなかでアオトラ石は適度な硬さと粘りがあり、加工しやすく丈夫だったといえます。そのため、縄文時代に重要な生活用具である石斧となって、木の伐採や土を掘る道具として使われるようになったのでしょう。
石材の断面を比較すると、神居古潭峡谷から産出され青色片岩やその周辺域から産出される緑色片岩、そしてアオトラ石では明らかに高圧の変成圧力の違いが見て取れます(写真4)。
アオトラ石の産出地である平取町は、町内のどこの遺跡を発掘してもアオトラ石が出土します。その中でも比較的転石の採取地点に近いと思われる「町有牧野第11牧区遺跡」では、アオトラ石の素材や製作途中の半完成品が多数出土しました(写真5)。
ここの遺跡は、完成品よりも完成直前の半完成品を作り出す工場の役割があったのかもしれません。こうした半完成品が、次第に北海道内各地や東北地方にまで持ち出され、刃部を作出して使用されているようですが、遠くに行けばいくほど貴重品として扱われたのでしょう。
現在、このアオトラ石で作られた石斧は、北海道内ばかりか、青森県の三内丸山遺跡のほか、秋田県、山形県など東北地方北部からさらに広がりを見せています。最近では新潟県の新発田市、村上市、新潟市、三条市などでも確認されています。
「沙流川歴史館・アイヌ文化博物館 学芸員 森岡健治」