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礼文島における金環日蝕観測【コラムリレー第50回】

はじめに

太平洋戦争終結後間もない昭和23年、最北の島『礼文島』の名が世界へ発信された出来事がありました。それは、日米の科学者による金環日食観測の舞台に礼文島が選ばれたことによるものです。この観測は、戦後の苦しい時代に明るい話題を提供するとともに、準備から観測まで一貫して携わってきた日本側関係者にとっても、記憶に残る貴重な観測であったと言えます。

しかし、実施から60年以上が経過していることもあり、残念ながら礼文町内でも当時を知る方々が少なくなってきています。そこで、このコラムを使わせていただき、町に寄贈された写真や文献などから観測当時の様子などを振り返ってみたいと思います。

礼文島の位置と環境

礼文島は、北海道の最北部、日本最北端の宗谷岬がある稚内市から西方約60kmの日本海上に位置しており、水産業と観光業を基幹産業とする人口約2,900人の日本最北の離島です。島の東南にある利尻島、及び稚内市から豊富町に広がるサロベツ湿原と合わせ、日本最北の国立公園である「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の一角を占めています。島には、北海道本島における1,500m級の山岳に生育する高山植物が海抜0m付近から自生しており、中でも礼文島固有種であるレブンアツモリソウがよく知られています。他にも多種多様な花々が4月から10月まで島を覆い尽くすことから「花の浮島」の別称で知られ、毎年、全国各地から多くの観光客が訪れています。

礼文島と利尻島

観測隊の陣容と観測地点

『礼文町史』には、昭和23年5月9日、礼文島の東海岸中部の起(き)登(と)臼(うす)地区を中心に、同じく中部の香(か)深井(ふかい)地区、及び島の玄関口である香(か)深(ふか)地区で実施された観測隊の陣容、観測目的等は下記のとおりまとめられています。また、『礼文島日食と測地天文学』によると、観測の指揮を執ったのは萩原雄祐東京天文台長、技術総括には米国地理学協会オキーフ博士、日食中心線の座標計算による観測地点の選定は、東京天文台広瀬秀雄博士が行ったとされています。

〇米国地理学協会オキーフ班  特殊カメラによる日食撮影

〇東京天文台虎尾班  観測地点の経緯度測定

〇東京天文台大沢班  太陽面の光度分布の測定

〇東京天文台下保班  部分食の撮影

〇水沢緯度観測所須川班  金環食過程の撮影

〇運輸省水路部鈴木班  中心線と南北限界の決定

〇東北大天文学教室松隅班  接触時刻の測定

〇東北大地球物理学教室中村班  太陽輻射の強度測定

〇京大宇宙物理学教室上田班  中心線の決定

〇柿岡地磁気観測所平平山班  地磁気地電流空中電気の測定

〇高層気象台山崎班  上層大気の変化の研究

〇中央気象台神山班  衛星気象の研究

〇中央気象台三宅班  紫外線の測定

〇中央気象台太田班  大気凝結の研究

観測当日の様子

昭和31年に礼文村として合併するまで、島内には香深村と船(ふな)泊(どまり)村の2村があり、明治35年以来の1島2村体制が長く続いていました。観測隊の来島にあたっては、当時の香深村長野村太市が先頭に立って観光協会を組織して観測隊の支援にあたるとともに、島外からの見学者等への対応も行っていました。

写真①~③は観測隊の準備風景を写したものです。写真②には軍服を着たアメリカ兵数名が写されています。GHQ所属の兵だと思われますが、『昭和23年礼文島日蝕観測』によれば、GHQは観測隊移動のため、東京から稚内まで直通の寝台特別列車を用意したほか、島内の移動に際して日本人が乗ることできない特別な船を用意したということです。写真③では、浜辺の観測小屋で観測隊員が準備するかたわら、香深村関係者が道路の補修を行っています。観測当日は午前中に雨が降ったため、道路に水たまりができ、それを土で埋めている様子が見て取れます。また、山側には報道関係者と思われる人々が機材とともに陣取っている様子もわかります。

写真①

写真②

写真③

写真④は、まさに日食を観測中の写真です。観測隊員が望遠鏡手前で持つ板状のシートに日食が写り込んでいるのが確認できます。

写真④

写真⑤は、日食を見る地元住民たちです。子どもから大人まで、手にシートを持って片目にかざして空を見上げています。シートはおそらく観察用に配布されたものと思われます。また、観測記期間中、子どもたちは単に観察をしていただけでなく、写真⑥にみられるように、観測機器の利用体験などもさせてもらっていたようです。

写真⑤

写真⑥

写真⑦は、香深村関係者と萩原雄祐東京天文台長との記念写真です。前列左から2人目が野村香深村長、その右隣で手に帽子を持っているのが萩原台長です。

写真⑦

おわりに

観測終了後の昭和29年、香深村ではその偉業を後世に伝えるべく、観測の中心地となった起登臼地区に記念碑を建てました。しかし、当初は山側に建てられため、後に治山工事の障害となる不運に見舞われ、平成15年、香深地区に所在する厳島神社境内に移設されました(写真⑧)。日食の様子をイメージして作られた新たな記念碑は、旧記念碑が建てられた向かい側の海辺に、雄大な利尻富士を背景に建てられています(写真⑨)。

写真⑧

写真⑨

引用参考文献

1949中央気象台刊『1948年5月9日 日食観測報告』

1972高津信行編『礼文町史』

1974東京12チャンネル社会教養部編『新篇私の昭和史3この道を行く』「礼文島、金環食観測記」

1990金子功著『1948年5月9日 礼文島日食と測地天文学』

2004福島久男編/札幌天文同好会刊『北海道天文史断片』「礼文島の金環食会報13号(1976年掲載)」

2005 永嶋豊晴著『昭和23年礼文島 日蝕観測』

礼文町教育委員会 主任学芸員 藤澤隆史