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忘れられた朝日の石灰岩塊【コラムリレー第5回】

士別市街地から東に約25km、平成17年に士別市と合併した朝日町の市街地を越えてさらに南東へ3kmに位置する山の頂部に、地域で「岩王」と呼ばれる巨大な石灰岩塊がある。平成9年にこの岩塊を確認した朝日町郷土資料室による命名で、あまりに大きかったため誰ともなく「岩の王様みたいだ」とつぶやいたことが由来だという。自動車が通行できる道路から岩王までは直線距離で約800m。鬱蒼としげる草木に隠れて、朝日市街地からも道路からもその姿を確認することはできない。

車を降りて、熊の寝跡や真新しい糞が散在する山中を、背丈ほどに伸びたササやウドをかき分けながら約45分進む。標高約390m付近の、南北に向かって伸びる尾根に上がると、ササが途切れて視界が開ける。

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尾根を南に進む

大小の石灰岩片が転がる尾根上をさらに南へ100mほど進むと、突如目の前に巨大な石灰岩塊が現れる。

東側から撮影

北側から撮影

 

南側から撮影

 

西側から撮影

 

市内の上士別町から朝日町には、上士別の通称「石灰山」、朝日市街地西側のスキージャンプ台がある丘陵先端部、市街地東の瑞穂公園の通称「9線のガンケ」など石灰岩塊の分布が知られている。特に上士別石灰山では北海道農材株式会社が大量の石灰岩を採石している。しかし、岩王は地質図に表示されるほどの大きさではなく、山中に位置していることから、地域でもその存在を知る人はほとんどいない。

かつて奥士別と呼ばれた旧朝日町では、明治34年頃から本格的に和人の入殖が始められた。当時の入殖者たちはこの石灰岩塊について、「あの岩でアイヌの人たちが烽火を上げているのを見た」、「非常に見通しが良いので、アイヌの人たちがこの地を通行する際の目印としていた」と語り、それゆえにこの石灰岩塊は「物見岩」と呼ばれていたという。このことを人づてに伝え聞き現在も覚えている人がわずかにいるものの、「物見岩」の存在は地域のほとんどの人々の記憶から長い間忘れさられていた。

昭和60年代、この石灰岩塊が鎮座する山の付近に住む人が朝日中学校へやってきて「うちの畑の沢を登って行った所に、人が住んでいた跡のように見える所があり、大きな岩に階段のようなものが付いている。火を燃やしたように見える跡もあるし、何か昔の人でも住んでいたんだろうか」と語った。それをきっかけに、「あそこで採集された石鏃が似峡の郵便局に飾ってあった」、「あの岩のことは誰それが知っている」といった情報が地域の方から中学校へ寄せられるようになった。平成9年には朝日町郷土資料室が所在確認のために踏査を行い、この石灰岩塊を改めて発見、かつて「物見岩」と呼ばれた岩塊は「岩王」として再び地域で知られることとなった。

岩塊頂部までの高さは約28m。下部には岩盤の崩落によって埋没した空洞と思われる部分が2か所確認できる。

埋没した空洞

 

岩盤崩落によって埋没か

天然の階段状になっているテラスをつたって頂部に立つと、西は上士別方面、北は朝日市街地、東は登和里方面をかなり遠くまで見渡すことができる。

岩塊頂上から朝日市街地

岩塊頂上から上士別方面

岩塊頂上から登和里方面

まだ本格的な調査が実施されたことがなく、岩王で採集されたという「石鏃」も岩尾内湖の底に沈んだ似峡の郵便局からその後どこへいったのか、現物を確認することができない。

しかし、初期の入植者たちの証言だけでなく、上士別石灰山がかつて「シラッチセ」と呼ばれていたことや9線ガンケが縄文中期の洞窟遺跡であることから、この場所にアイヌの人々や先史の人々の暮らしの痕跡が遺されている可能性は高いと考えられる。

今後、朝日町郷土資料室や地域の方々と協力しながら調査を進め、再びこの石灰岩塊が地域から忘れ去られることがないように、地域の遺産として残し伝えていきたいと思う。

〈士別市立博物館 主任主事・学芸員 森 久大〉