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北海道の移住文化からみる葬送儀礼の構築 【コラムリレー第10回】

北海道は移住者の多い地域である。明治時代から、開拓のために本州からの移住者が大勢入ってきた。移住者の出身地はそれぞれ異なり、文化も異なるものを持っていた。北海道の多くの地域は、そうした異なる文化を持つ者が同じ地域に移住して、町や村を形成していった背景を持つ。

 

葬儀は、かつては地域社会がその多くを手伝わなくては成り立たなかった。地域社会を巻き込んで行なわれる儀式は葬儀のほかにも、決まった時期に行なわれる地域の祭りなどがある。定期的に行なわれる儀式は入念な準備を経て執り行われる。しかし葬儀は、死者が出なければ行なわれない不定期な儀式だ。こうした、不定期に行なわれ、突然の準備に追われ、なおかつ地域社会の力を借りなければならない儀式はこれまでどのように変化してきたのか。また、様々な地域からやってきた人々が混ざり合い、それぞれが異なる文化を持ち生活していた人達で構成されている地域である北海道では、他の文化が混ざり合うことが少ない北海道外の地域と比べてどのような展開を見せたのか。儀式の中でも定期的に行なわれるものとは異なる性質を持つ葬儀の、北海道の中での変遷を追跡してみた。

 

葬儀の中でも、特に変化が見られるものを挙げると、第一に遺体の処理がある。葬儀を行なうにあたって、遺体は何かしらの方法で処理しなくてはならない。帯広市(旧川西村)別府町の別府墓地では、昭和10年代まで土葬が行なわれていたという。かつて青年団の一員として土葬を担当したことのあるWさん(大正7年生)にその方法を聞いてみた。Wさんによると、土葬は、穴掘り役を部落の青年団に加入している若者二人が担当するということである。担当者は青年団の中で順番に回すのだという。穴を掘る深さは6~7尺くらいだったということである。3尺位掘ると、水が出てくるということで、それをさらに掘り進めたのだという。Wさんは、棺が到着する前に穴を掘るのか、棺と一緒に行動して、墓地で穴を掘るのかというところまでは、覚えていなかった。穴を掘ると、鉋をかけない四分板で作った遺体の入った棺を、青年団の二人が穴に入れて、土をかけて埋めたということである。家族の者が土をかぶせたることはないということである。当時は、自分の死者に土をかぶせるなんて、悲しいことはできないという考えがあったということである。

 

別府墓地 かつて土葬が行なわれていた場所

別府墓地 かつて土葬が行なわれていた場所

 

このように、別府町では伝統的な方法で葬儀が行なわれていたようである。一方で、省略された部分もあった。Wさんは宮城県の出身であるが、本家のある仙台や、親戚のいる山形県で葬儀が行なわれたときの土葬では、掘った穴の中から地上へと息継ぎ棒がつけられたということだった。そうした知識はあったが、別府町で土葬を行なうときには、そこまでしなくてもよいだろうということで、行なわれなかったということを記憶していた。移住先の別府町で、葬儀の変化が起こったひとつの事例である。その後、別府町では昭和10年代から遺体の処理が野焼きに変化し、昭和30年代には公営火葬場での火葬に変化したということである。なお、様々な地域からの移住者が混淆している三笠でも、これと同様の変化を示していた。

 

帯広市域の土葬・火葬の年代(聞き取りを行なった43事例中)

帯広市域の土葬・火葬の年代(聞き取りを行なった43事例中)

 

三笠市の土葬・火葬の年代(聞き取りを行なった26事例中)

三笠市の土葬・火葬の年代(聞き取りを行なった26事例中)

 

1960年代と1990年代の葬儀の全国的な様子を記述した、国立歴史民俗博物館『死・葬送・墓制資料集成』東日本編1・2(1999)、西日本編1・2(2000)を整理してみると、遺体の処理の方法は1960年代には土葬が多く、1990年代には公営火葬場が多いことが分かる。帯広市の別府町や三笠では、全国的な傾向よりも速く、儀礼が変化していることが確認できる。

 

全国的な土葬・火葬の数(『死・葬送・墓制資料集成』の整理より)

全国的な土葬・火葬の数(『死・葬送・墓制資料集成』の整理より)

 

他にも、遺体の墓地や火葬場への搬送における野辺送りの方法も、変化がみられる。昭和3年の三笠市本郷町の葬儀の、野辺送り前の出立ちの様子を写真で見てみる。喪家の人間であることを示す白い喪服を着た人々が、棺から伸びるツナを持ち、出立ちにいどんでいる。棺も座棺用のものである。

 

三笠市本郷町の昭和3年の野辺送りの様子

三笠市本郷町の昭和3年の野辺送りの様子

 

一方で、三笠市本郷町のAさん(昭和13年生)によると、三笠では昭和20年代には、馬車や馬橇による運搬であったということである。そして、昭和40年代後半には、マイクロバスや霊柩自動車が使用されるようになってきたということである。なお、帯広市域の場合は、昭和30年代から、マイクロバスなどに乗って、火葬場へ向かうようになってきていた。徒歩で、様々な装具を持ちながら歩く野辺送りから、そうした装具を省略し、マイクロバスや霊柩車など、運搬のしやすい方法に変化している。帯広市域の方が三笠と比べて変化は僅かに早いが、ほぼ同様の変化を示している。

 

三笠市の野辺送りの年代別方法(聞き取りを行なった26事例中)

三笠市の野辺送りの年代別方法(聞き取りを行なった26事例中)

 

帯広市域の野辺送りの年代別方法(聞き取りを行なった37事例)

帯広市域の野辺送りの年代別方法(聞き取りを行なった37事例)

 

帯広市の昭和30年代の野辺送りの様子

帯広市の昭和30年代の野辺送りの様子

 

先述の『死・葬送・墓制資料集成』で野辺送りの全国的な傾向を確認してみると、1960年代には徒歩が多く、1990年代には霊柩自動車への移行の傾向が確認できるものの、徒歩が多い傾向にある。帯広市域や三笠では、全国的な傾向と比べて野辺送りの変化が早かった。遺体の処理の方法と同様に、変化が早い傾向が確認できた。

 

全国の野辺送り年代別方法(『死・葬送・墓制資料集成』の整理より)

全国の野辺送り年代別方法(『死・葬送・墓制資料集成』の整理より)

 

以上のことから言える北海道の葬儀の特徴は、次の視点である。

① 移住先の地に持ち込まれた習俗は、省略化・簡略化の傾向が顕著である。

② 異なる習俗を持つ地域の人々が混ざり合って構成されている北海道では、習俗の変化が著しい。

 

ここまで、葬儀の変化を述べてきた。また、全国的な傾向との比較も試みた。その結果として、北海道の葬儀は全国的な傾向と比べて変化が激しいことが指摘できる。移住開拓地として、様々な文化の混ざり合った北海道の葬儀では、儀礼が本州の出身母村からは受け継がれづらく、省略化や簡略化されたり、新しい要素を加えたりしてきていることが確認できた。こうした変化の理由は、北海道が様々な地域の出身者が集まってできている土地であるため、皆が一つの儀礼を共有できるように変化していった可能性があると考えられる。

 

葬儀は不定期に行なわれる儀式である。北海道の葬儀を研究することは、入念な準備のできない儀式が、様々な文化の混ざり合いの中でどのように変化するのかを追跡する上で有効なのである。

 

<三笠市立博物館 高橋史弥>

次回は富良野市博物館の澤田さんの投稿です。ご期待ください!