義経は生きていた!?
北海道では、110以上の場所で源義経(1159-1189)にまつわる伝説が存在します(阿部敏夫編『北海道義経伝説序説』参照)。義経山や義経岩、義経神社に加え、北海道最初の機関車は「義経号」と名付けられました。源義経といえば、平安末期、機知に富んだ戦術で平氏を追討しながらも、兄頼朝との不和から都を追放され、逃亡した先の奥州平泉で自害し、31歳でこの世を去った人物です。その悲劇的な生涯は人々の同情を集め、彼を英雄視する数多くの伝説を生み出しました。北海道と義経を結び付けたのも、そうした伝説の一つです。「義経蝦夷渡伝説」―義経は平泉で死なずに蝦夷地に渡り、その地で大王と仰がれ、神としてまつられた―という物語は、義経の死にまつわる伝説のうち、最も流布したものとされます。
江戸時代中頃から急速に広まったこの伝説は、江戸で出版された書籍の挿絵や錦絵に盛んに描かれます。一方、北海道には、この伝説を描いた絵馬が存在します。
今回は、そんな北海道にのこる絵馬をいくつかご紹介します。
絵馬に見る義経蝦夷渡伝説
まず紹介したいのは、市立函館博物館が所蔵する《アイヌ風俗絵馬》です。絵馬の記述によると、奉納されたのは安永4年(1775)。道内にのこる絵馬の中ではかなり古い年代のものです。
画面左では、甲冑姿の武者が床几に腰かけています。鎧には笹竜胆の紋が入っており、兜には鍬形と龍の頭がついています。笹竜胆は、歌舞伎や錦絵において、源氏の登場人物が衣装に必ずと言っていいほどつけている紋です。なかでも義経は、鍬形と龍の頭がついた兜がトレードマークになっています。この武者は義経を描いたものと考えて良さそうです。
一方画面右には5人の人物が描かれています。それぞれの衣装には、直線や曲線の幾何学的な文様が華やかに施されています。男性は、皆豊かな口髭、顎髭をたくわえており、女性の唇や手の甲には刺青が施されているようです。また男女とも耳飾りをつけ、肌の色は黒っぽく描かれています。これらの特徴は、江戸時代中頃から明治にかけて、和人(アイヌでない日本人)がアイヌを描く際に必ず描き込んだ特徴です。また男性3人は、義経に向かって身をかがめ、指を軽く曲げて掌を上に向けるポーズをしています。これは、アイヌの儀礼の場面で、礼拝する人物を描く際に用いられるポーズです。
彼らと義経との間には、漆器の台に乗った3本の巻物と、木彫りの台にのった鯛があります。これらはアイヌから義経に捧げられているように見えます。また、右奥の男性は、女性の頭をなでながら顔を覗き込み、何やら慰めている様子に見えます。
さて、はじめに北海道には多くの義経伝説が存在すると述べました。北海道内では、地域によりさまざまに異なる義経蝦夷渡伝説のエピソードが伝えられています。この絵馬に描かれているものに注目しながら、絵師がどんな義経伝説を下敷きにしたのか、推測してみます。
まず注目したいのは、義経とアイヌの間にある3本の巻物。
実は、この巻物が登場する義経伝説が道内のあちこちに伝承されています。例えば、増毛には、義経がアイヌの女性が持っていた魔法の巻物をとり上げてしまい、その女性は魔法を使えなくなってしまったという話があります。また、白老や平取には、義経がアイヌの巻物を持って逃げ去り、そのためにアイヌからは文字がなくなってしまったという話が伝わっています。
今度は、頭をなでられている右奥の女性に注目しましょう。
男性に慰められている様子ですが、何か悲しいことがあったのでしょうか。彼女の姿は、道内各地にのこる、義経に心を寄せたアイヌ女性の悲恋の物語を想起させます。アイヌの女性と恋仲になった義経は、次の目的地へ向うため、女性を置いて旅立ってしまいます。女性は義経との別れの悲しみのあまり身を投げ、岩になってしまった。積丹岬の女郎子岩や、神威岬のメノコ岩にまつわるエピソードとして伝わる他、類似の話がいくつも存在します。
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ところで、この絵に非常に似た絵馬が上ノ国町の上ノ国八幡宮で所蔵されています。先の絵馬が奉納されて100年以上経過した後、明治15年(1882)に奉納されたものです。
一見するとほとんど同じように見える2つの絵馬。大きな違いは、右奥の男女の姿が、こどもに取って代わっていることと、鯛がなくなっていること。その他は、彩色や文様などに細かな違いがあるものの、人物のポーズや面貌などにかなりの共通点が見られます。奉納年の差を考えると同一の絵師の手によるものとは考え難いですが、少なくとも、同じ手本を用いて作成しているなど、なんらかのつながりがあることがうかがえます。
実はこの絵馬の裏には、「為病気平癒納/久末平蔵/本年五十九才」という書き込みがあり、病気が治った感謝の気持ちを込めて奉納されたものであることがわかりました。奉納者の久末平蔵は、この地で鰊漁に従事していた人物のようです。病気平癒の報告に、義経とアイヌという画題を選んだ理由は不明です。ですが、絵馬に強い武者を描いて奉納するという慣習は古くからあり、病魔を追い払って欲しいという願いが込められる場合もあるようです。
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また同じ明治年間には、三笠の幌内神社にも、この伝説を描いた絵馬が奉納されています。現在は美唄市の峰延神社で保管されているこの《義経蝦夷渡伝説図絵馬》は、日本画家・北條玉洞(1852-1923)が手がけたもので、明治19年(1886)に齋藤善太郎という人によって奉納されたことが記されています。
海を背景にした海岸で、義経らしき人物が毛皮の敷物に座っています。そして向かい合うように座る3人のアイヌ男性。アイヌと義経の間には、食物や飲み物が入った木彫りの器が置かれています。アイヌ男性の1人は、その器を指差し、義経に何事かを語りかけている様子です。
この様子は、義経が、「オキクルミ」というアイヌの神の1人と同一視されて、アイヌの信仰を集めていたという話を想起させます。オキクルミは、地域によってその位置づけは異なりますが、アイヌの始祖であるとか、アイヌに生活文化を教えた神であるとされています。このオキクルミが天上に火をもらいにいってから、アイヌは火を使えるようになったという話があります。また同様に、オキクルミが天上に稗をもらいに行って地上に持ち帰ったという話もあり、アイヌに穀物を与えた神ともされています。
そういった伝承を念頭に置くと、この絵馬が、オキクルミ(=義経)から穀物を与えられたアイヌの様子を描いたものに見えてきます。この義経=オキクルミ説は、18世紀末以降、アイヌを日本人に帰属させる政策のために、幕府が利用し、広く流布したものだろうとの指摘がなされています。幕末から明治にかけての北海道開拓において、この画題はそうした政治的な役割を担っていた可能性があります。
この絵馬が奉納された幌内神社は、幌内炭山の鎮守の山神として建立され、炭鉱関係者の信仰を集めた神社です。そしてこの絵馬の奉納者の齋藤善太郎は、鉄道の敷設を行っていた北海道炭礦鉄道事務所から材木伐採の仕事を請け負っていた人物です。開拓使は、幌内炭山で産出された石炭の積み出しを目的に鉄道の建設を開始しました。幌内における鉄道と炭鉱の開発は、北海道開拓における重要な事業の一つでした。
鉄道の建設に関わっていた齋藤善太郎は、幌内の鉄道や炭鉱の発展、つまりは開拓の発展を願って、この画題を選んだのかもしれません。
おわりに
さてここまで、多分に推測を含みながらではありますが、伝説を描いた絵馬から、義経蝦夷渡伝説と北海道の関係を見てきました。江戸時代中頃から明治にかけて、この伝説のさまざまなエピソードが道内に広く浸透していたこと、そして幕府の蝦夷地政策や開拓使による北海道開拓とこの伝説が、密接な関係を持っていたことがうかがえました。
今回は紹介できませんでしたが、この伝説をテーマにした、江戸で出版された書籍の挿絵や錦絵には、今回紹介した絵馬とはまったく違う表現が見られ、この伝説が時代により地域により、さまざまに受け止められていたことがうかがえます。義経蝦夷渡伝説の受容の様相を明らかにする為には、今後より多くの関係資料を集める必要があります。義経蝦夷渡伝説を描いた絵について、現在地道に捜索しているところですので、お心のあたりのある方は、是非、ご一報くださいますよう、お願いいたします。
<北海道開拓記念館 山際 晶子>
来週の投稿は、市立小樽美術館の旭 司益さんです。お楽しみに!