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福山城下の石材採掘遺跡―神明石切り場跡【コラムリレー第22回】

松前氏は、北海道島唯一の近世大名であり、その居城であった「史跡 松前氏城跡 福山城跡」は、沿岸防備のため、前身となる福山館を改修・補強して安政元年(1854)に完成した、我が国最後の旧日本式城郭です。福山城の石垣は、在地産の緑色凝灰岩(グリーンタフ)を用いて構築されており、その石材を産出したのが「神明石切り場跡」です。

神明石切り場跡は、福山城跡の北1km、大松前川の西岸に位置し、平成17年度に石垣遺構が発見されたことを機に、平成18年度から平成22年度まで、松前町教育委員会により範囲・内容確認調査が実施され、幕末から近・現代にかけての石切り跡や、石材を運搬した石曳き道、番屋跡とみられる建物遺構が確認されました。

 神明石切り場跡近景

石材を割り取った痕跡すなわち石切り跡は、松前段丘の上位面、標高約60~120mに露頭するグリーンタフの母岩に、15箇所確認され、矢穴など採掘工程が判る幕末の石切り跡や、ドリルによるボーリングの後、その底部に火薬を詰めて発破するという近代以降の採掘跡が確認されています。また、山の斜面に沿って形成された溝状地形や、土砂をほとんど含まないグリーンタフ細粒・破片が、かたく締まって堆積する状況は、石材を運搬した石曳き道であったと判断されます。

江戸時代の石切り跡

 

石曳き道とみられる溝状地形

 

さらに、神明石切り場跡発見の契機となった石垣遺構の平坦面を発掘調査した結果、礎石に加え、和釘や燻瓦といった建築資材、19世紀中葉の陶磁器や金属類が出土しました。ここではグリーンタフ片の堆積がみられなかったことから、作業場ではなく、採石作業を統括する番屋としての機能が想定されます。

 石垣遺構及び番屋跡とみられる平坦面

 

番屋跡から出土した鎹や和釘

ところで、本遺跡の存在は、江戸時代から昭和にかけての史料においても確認できます。

松浦武四郎により記された『蝦夷日誌』巻之一では、弘化年間(1844~1847)の福山城下神明町の記録として「神明町 小商人 番人住す 藩士池浦 古田等有り 西神明社 東は石切場に距り 南川に添 北山に靠る」という一文がみられ、神明町に石切場があったことが分かります。続けて「石切場 石質甚柔しといへども 此地の竈石 敷石等多くは此処より出す」とあり、福山城築城以前から採石が行われ、城下へ石材が供給されていたことが判明します。

また、木村源吾文書のうち『公私日記』(函館市中央図書館所蔵)では、嘉永5年(1852)11月10日の項に「神明沢奥より 大石垣石 雪車にて引出し候に付 御作事方 町方共警護」とあります。「大石垣石」とは、福山城築城に用いるための石垣石を指し、その運び出しは冬に行われ、「雪車」(ソリ)が用いられていたことが分かります。

この他、近代以降の文書類の中でも、神明沢沿いから石材を切り出し、福山城下に供給していた記事が確認され、発掘調査の内容と矛盾しないことが分かりました。

 

神明石切り場跡は、史跡松前氏城跡福山城跡の築城に関わる重要な遺跡であり、幕末から近代、そして現代に至るまで、福山城下に石材を供給し続けた生産遺跡であることが判明し、平成25年10月17日に「史跡 松前氏城跡 福山城跡」に追加指定されました。

※ 現在、神明石切り場跡は、地すべりの恐れがあることから、一般の立入を制限しておりますので、ご了承ください。