Breaking News
Home » 地域の遺産 » 知内川とサケの関係【コラムリレー第18回】

知内川とサケの関係【コラムリレー第18回】

 

知内川は渡島地方南西部にある大千軒岳を源に発し、津軽海峡にそそぐ全長34.7kmの二級河川である。昔から砂金採掘が盛んに行われており、元和2年(1616)に良質な金山が発見され、日本中から人が集まった、とゴールドラッシュがあったことがイエズス会のカルワーリュ神父により記録されている。また、町内雷公神社に残る江戸時代後期に書かれた「大野土佐日記」によると、元久2年(1205)荒木大学という人物が砂金を発見し、採掘のため掘り子を連れ渡ってきたという。

また、中世よりサケの遡上する川として有名で、近世に入ると上ノ国の天の川と並んで代表的なサケの生産河川となっていた。松前藩主の遣用のサケを献上する場所とされており、村長が藩主に謁見する際は上席に座るのを許されていた。近代に入っても、明治12年に知内学校が開設されたが、運営費用にはサケの漁獲高の1割があてられたとある。サケが身近でかつ重要な産物だったことがうかがえる。

 

袋沢土管調査

沢の付近に建物の基礎石や土管が見られる(袋沢)

さて、明治の中ごろまでは手鉤で容易に獲れていたというサケも次第に漁獲量が減っていった。そこで明治43年、村会で「知内村鮭人工ふ化場設置」の動議が提出可決され申請認可された。実地調査の結果、河口から二里半上流の袋沢地区が最適地としてここにふ化場を設置することとした。昭和4年度には648,300尾の放流を行ったが、収支としては赤字となっている。ただ、赤字経営となっているのは知内だけでなく、この頃道内民営ふ化場の多くが同じような状態で、昭和9年に従来の民営ふ化場が国営化されることが決まった。袋沢のふ化場も昭和12年に国営化された。しかし昭和19年に雪崩のためふ化室が倒壊し、用水の不足やへき地による管理の難しさから袋沢での再建は断念された。その後、ふ化場は場所をうつりながら、現在は上雷地区の知内川沿いにある。

袋沢の建物は現在残っていないが、道道から山を歩き、しばらく行ったところに建物の基礎や土中の配管が見つかっている。

 

サケの豊漁不漁は生活を左右していた。それは「雨石」の伝説にも表れている。「雨石」とは、雷公神社の初代大野了徳院を埋葬した際の塚石で、日照りの続くときに水をかけ祈願をすると雨が降ったというものである。川の水量が少ないとサケが遡上することができないため、こうした話が残るのであろう。現在この雨石は雷公神社に祀られている。

ところでこの雨石、いたずらに伝説と決めつけるものでもない。昭和60年ごろ、雨が少なく、サケがなかなか上ってこなかった。そこで実際に雨石を川に沈めて雨乞いをしたのである。その後本当に大雨が降り、川の水も増えたのである。まさに伝説を実証したわけだが、あまりの増水にサケを捕獲するウライも流されてしまったという逸話もある。

 

知内川をのぼるサケ(新知内橋から)

知内川をのぼるサケ(新知内橋から)

知内川に上るサケの遡上は観察条件が比較的良い。知内川の河口は町の中心部を通っているが、あまり上流まで登らないところで産卵するサケの群れを観察できる。

 

 

 

 

(知内町郷土資料館 学芸員 竹田 聡)