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地域に残る北海道移住の「記憶」:空知郡南幌町の事例から【コラムリレー第14回】

田園風景が広がる空知郡南幌町の三重地区(2015年撮影)

 

近代以降の北海道史を考えるにあたって、「北海道移住」は欠かすことの出来ない要素である。明治期後半から大正期を中心に、東北・北陸地方を始めとする全国府県から多数の人びとが北海道へ入植し、道内各地に新たな地域社会が形作られていった。その「記憶」は、現在もさまざまな形で地域の中に残されている。ここでは、札幌市中心部から車で東へ1時間ほどのところにある、空知郡南幌町の事例を紹介する。

南幌町内には、「三重」と呼ばれる地区がある。この地名は、明治26年(1893)から明治28年(1895)にかけて、幌向原野のパンケソウカ(南10線より南13線に至る間及び0号より西10号に至る間)に、旧藤堂藩士板垣贇夫(よしお)を団体長とする三重団体77戸が入植したことに由来している(南幌町史編さん委員会編『南幌町百年史』上巻(南幌町、1993年)。なお、同時期に幌向原野の御茶の水にも25戸が入植したが、これは現在の岩見沢市域にあたる)。

団体長であった板垣贇夫は、藤堂藩士板垣魁蔵の長男として、安政4年(1857)、伊勢国安濃郡岩田村(現在の三重県津市)に生まれた。外様大名・藤堂家が治めた藤堂藩は、津に藩庁があり、領地は最大でおよそ32万石に及んだ。その藤堂藩の家臣団の中で、板垣家は、江戸藩邸の留守居役などの役職を務めた、禄高450石ほどの中堅家臣であった。

明治維新後、贇夫は、農業を志し、明治23年(1890)には岩田農業組合を組織して組合長に就任した。そして、郷里の狭い土地で農業を営む人びとの苦しい生活を見て、北海道への移住を決め、移住組合を立ち上げたと言われている。この組合による団体移住は、現在の赤平市、苫前町、上富良野町にも行われ、合計270戸余に及んだ。

南幌町に残る三重団体の「記憶」として、三重という地区名そのものに加えて、三重地区の三重会館の敷地内には、「開拓八十年之碑」(昭和47年(1972)建立)、「三重開基百年之碑」(平成4年(1992)建立)、 天照皇大神・ 稲倉魂命・垣安姫命・少名彦命・大己貴命の五神を祀る石柱(昭和11年(1936)建立)がある。

三重会館(2015年撮影)

三重会館の敷地内にある天照皇大神など5神が祀られた石柱(2015年撮影)

 

また、明治29年(1896)に伊勢神宮から天照皇大神の分霊を祀った五十鈴神社(現存していない)の参道入り口跡を示す木柱や、開拓十周年を記念して明治37年(1904)に五十鈴神社の境内に建てられ、現在は南幌神社の境内に移設されている「開拓紀念碑」、三重県津市の四天王寺を本寺とし、もともとは明治27年(1894)に尼僧・旭地了寛が三重団体の入植地内に結んだ草庵に由来する拈華山菩提寺(曹洞宗)も、その「記憶」と言える。

五十鈴神社参道の入り口跡を示す木柱(2015年撮影)

三重団体の開拓十周年を記念して建てられた「開拓紀念碑」(2015年撮影)

 

さらに特筆すべき点として、板垣家ゆかりの文書約1,500点が南幌町内に残されていることが挙げられる(南幌町郷土史研究会所蔵)。北海道へ移住した後の板垣家の歩みや南幌町の歴史を示す文書ばかりではなく、藤堂藩時代の板垣家の歩みや藤堂藩の歴史を示す古文書も少なからず含まれていることが大きな特徴である。いわば、板垣家とともに、板垣家の古文書もまた、「移住」したのである。古文書を携えて移住するという行為の背景には、藤堂藩家臣としての自身の家の由緒を大切にしながら北海道での新たな暮らしを営んでいこう、という強い思いがあったと考えられる。

平成27年(2015)4月に開館した南幌町生涯学習センター内の郷土資料室にある板垣家文書の展示コーナー(2015年撮影)

安政3年(1856)に板垣贇夫の父・魁蔵に与えられた関口流柔術の秘伝書(南幌町郷土史研究会所蔵 板垣家文書)

このような古文書は、南幌町の歴史を直接的に物語るものではない。しかし、その存在そのものが北海道移住という歴史を物語っているという意味で、やはり、地域に残る重要な「記憶」と言える。

<北海道博物館 学芸員 三浦泰之>