今から6000年前、石狩平野の北半分は海に覆われていた。「縄文海進」という。聞いたことはあるかもしれない。しかし、その証拠を見たことはあるだろうか。
そこが昔、海だったのか陸だったのか——。それを解明するには、地層や化石を調べる。地層の中に海の貝や魚、クジラなどの化石が入っていれば当時は海だったことがわかる。しかし、石狩平野のような低地で地層を見つけようと思ったら、ボーリングで地下を掘削するしかない。崖の地層を探すのと違って、誰でもできるわけではない。
かつての海の痕跡は、一部の研究者しか見ることができないのか?
紅葉山砂丘。ハマナスなど海浜植物の群生する石狩湾の海岸から約5km内陸に、海岸線と平行に石狩平野の北部を横切る細長い砂丘である。札幌市西部の手稲山の麓から、石狩市を通り北東の当別町まで、長さ約15km。まわりの標高は2〜5mなのに対し、紅葉山砂丘の最高地点は標高17.6mある。
“砂丘”と言っても、サハラやゴビを想像してはいけない。乾燥地帯を指す“砂漠”ではなく、砂丘は砂でできた丘。あくまでも地形・地質のことであり、雨が降って草木に覆われていてもかまわない。実際、現在の紅葉山砂丘はほとんど林になっているし、地表面も一見、土に覆われている。そもそも、農地や宅地の開発により、延長15kmのはずの砂丘も、すでにその大半が削られて消失している。ほとんどの人は砂丘の存在に気づいていない。
それでも紅葉山砂丘はポツポツと断片が残っている。農家や墓地、自衛隊や大学の敷地などだ。そこでは、周辺より数mの高まりが続き、足下の“土”を手に取ってみれば砂粒でザラザラしているのがわかる。
砂丘で生活していたのは現代人だけではない。そこには、縄文時代中期(約4000年前)以降の遺跡が密集している。紅葉山砂丘上で見つかったことを示す「紅葉山○号遺跡」という名だけでも、番号は56号まで達している。当時、周辺は湿地帯でとても住むことができなかったため、人間はしっかりした砂地の砂丘上に生活していたようだ。
これまでの地質や遺跡の調査によって、紅葉山砂丘の地下の地質は明らかになっている。表土のすぐ下には、陸上で風が吹き寄せて集まった細かい砂の層。それが砂丘の本体だ。その下には浅い海底でたまった粗い砂や小石の層がある。これが土台である。
砂層からは、クジラの骨や貝の化石も見つかっている。放射性炭素の年代から、海のクジラは5700年前、汽水の貝のシジミが5400年前に生きていたものであることがわかった。
紅葉山砂丘は、海の中で生まれ、しだいに陸地へと変化したのだ。
6000年前の石狩平野。温暖な気候によって、低地に浅い海が入り込んでいた。湾の入口では沿岸流が海底に砂を集め、海面に達する細長い砂州が成長していった。そのようすは、現在のサロマ湖や風蓮湖を思わせる。砂州が安定して草原になると、ハマナスの群落も見られたに違いない。
その後、気候の変化による海面の低下と、石狩川が運ぶ土砂の埋め立てによって、石狩平野の海は汽水へ、そして再び陸地へと戻っていった。そのとき、前に陸地だった時代にはなかったものが1つ、新たに加わっていた。砂州が内陸に取り残されたもの——。紅葉山砂丘である。
こうして海から遠く離れてしまった砂丘だが、実は今でも人知れずハマナスが咲いている所もある。それはもしかしたら海辺だった頃の子孫なのかもしれない。
縄文時代から現代まで、石狩の人々の生活の場となってきた紅葉山砂丘。かろうじて残っているその姿は、誰でも散歩がてら目にすることのできる、6000年前の海辺の証拠なのだ。
<いしかり砂丘の風資料館 学芸員 志賀健司>