北海道における近代昆虫学は、幕末から明治の初めにかけて来日した西洋人研究者によってはじめられました。札幌農学校で昆虫学を学んだ松村松年が1896年に同校昆虫学教室(現在の北海道大学農学部昆虫体系学教室)に着任すると、研究の担い手は松村とその教え子の日本人研究者の手に移ります。しかし、釧路・根室・十勝・網走の北海道東部4管内は、現在でも札幌の研究者が日常的に訪れることのできるフィールドではありません。そのため戦前の北海道東部の昆虫に関する情報は、きわめて断片的なものしかありませんでした。
北海道東部の昆虫をはじめて体系的に研究した人物の一人として、飯島一雄氏(1928~2016)の名があげられます。飯島氏は長野県出身、1933年に釧路管内の川上郡標茶町に移住し、1943年に標茶国民学校高等科を卒業後は畜産業や林業を営むかたわら生涯にわたって研究を続けられました。釧路市立博物館では飯島氏が研究のため収集整理分類された昆虫標本を「飯島一雄コレクション」として保管しています。その中にはエゾカオジロトンボやイイジマルリボシヤンマ、シベチャキリガ、イイジマキリガなど、飯島氏が発見されて学名や和名に名前や地名がつけられたものも少なくありません。
飯島氏自身によって発表された北海道東部の昆虫に関する論文には全部で4,395種の昆虫が登場します(土屋 2017)。これは北海道産昆虫9,894種(釧路昆虫同好会 1999)の44.4%にあたります。そのほとんどが普通に見られる昆虫であることから、飯島氏の研究が珍しい昆虫や希少種の発見を目的としていたのではなく、北海道東部の昆虫相の解明、昆虫目録づくりを目指した「インベントリー調査」だったことが分かります。
北海道東部の昆虫は現在どこまで分かっていて、何が分かっていないのか、「飯島一雄コレクション」を調べることで見当がつきます。コレクションに含まれるトンボ類は46種で全道比73.7%、チョウ類は96種で73.8%をカバーしています。これらの昆虫は研究者や愛好家が多く、大型で人目につきやすいものが多いことから今後新たに発見される可能性は低いとされています。小型種を中心に未知の種が毎年のように発見されている蛾類でも1,700種で全道比75.1%、甲虫類は1,808種で78.7%を記録されています。これらの記録から、北海道東部には全道比約75%の昆虫が生息していると考えられます。
その一方、ハチやアリの仲間は58種で全道比3.2%、ハエ・アブ・蚊の仲間は282種で15.1%しかコレクションに含まれていません。これらの昆虫も全道比75%いるとすると、ハチやアリはあと1,281種、ハエ・アブ・蚊は1,122種いなければならないことになります。他の昆虫も同じように全道比75%いるとすると、少なく見積もってもまだ約3,000種が北海道東部に生息している計算になります。
北海道で近代昆虫学の研究が始まって150年、飯島氏はその後半75年のほぼすべての期間にわたり研究に関わり、北海道東部に全道比約75%の昆虫が生息していることを明らかにしました。飯島氏の研究はあらゆる昆虫を対象にしたこと、研究期間が長期にわたること、成果を論文にして記録に残し続けたこと、研究の裏付けとなる標本を地元の博物館に寄贈してほかの研究者や教育に利用できるようにしたことなどの点において、日本の地域昆虫相研究の金字塔であり、今後もコレクションとともに記録保存されるべきものといえるでしょう。
(釧路市立博物館 学芸員 土屋慶丞)
参考文献
釧路昆虫同好会編.1999.道東の昆虫.釧路市.釧路.
土屋慶丞.2017.甲虫コレクションガイド8 釧路市立博物館の甲虫コレクション.さやばねN.S.,(26): 35-37