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慶勝公の神棚と内田文三郎【コラムリレー第13回】

慶勝公の神棚

慶勝公の神棚

はじめに

酪農と漁業が盛んな道南の町、八雲町。
元尾張藩士族たちによって、噴火湾に注ぐ遊楽部川下流域の開拓が本格的に進められたのは、明治11年からでした。
彼らは尾張徳川家の当主との繋がりを大切にしながら八雲の地で生活していきます。

 

慶勝公の御影を祀った内田文三郎

写真の資料は、元尾張藩士の父を持つ内田文三郎が生前に八雲の自宅で祀っていた神棚で、なかには尾張徳川家第14代藩主であり、明治維新後に再家督して17代当主となった徳川慶勝公の写真が収められています。
神棚のサイズは幅8.95cm 奥行5.85cm 高さ13.34cmと小さなものです。
裏には

「明治癸未孟冬徐日両国廣小路ニ於テ求之 内田氏 所有」

と書かれており、明治16年の初冬に東京両国広小路で入手したものと思われます。
慶勝公は本所横網町邸(現在の両国国技館の位置)に明治12年から住んでおり、明治16年8月1日に歿します。この写真の原版が徳川林政史研究所に保管されていることも合わせると、慶勝公の歿後に写真を徳川家から戴き、近くの広小路で神棚を入手して祀ったのではないかと思われます。

文三郎は明治3年東京生まれで、明治17年に東京英和学校を卒業して徳川家から選ばれて札幌農学校で学び、卒業後は八雲の徳川家開墾地に入り、のちに八雲町長も務めました。八雲人として生きたその傍らにこの神棚があったことは、旧藩士族にとって慶勝公は特別な存在であり、精神的な拠り所であったといわれていることを裏付けていると考えられます。

 

尾張徳川家と北海道八雲町の深いつながり

この尾張徳川家への思いは文三郎に限ったことではなく、八雲において慶勝公が熱田神宮の分社である八雲神社へ「徳川慶勝命」として昭和9年に合祀されていることからも伺えます。
また、移住士族たちは、明治45年に第19代義親公より、徳川家開墾地の一部を無償譲渡されて自作農となりますが、徳川家の高恩を記念し報いるとともに移住人の親睦和合を図る組織「和合会」を大正4年に結成して、折々に集まって当主にご挨拶をし、毎年豆と鮭を贈呈しています。この和合会は現在も存続し、来年100周年を迎えます。
さらに義親公は昭和41年に八雲町名誉町民第一号となり、それを記念して町民たちが義親公の胸像を建てるなど、「殿と家臣」「農場主と小作人」といった枠組みが外れた後もつながりがあったのです。

(八雲町郷土資料館 大谷茂之)