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北海道へ“移住”してきた“古文書”が語ること【コラムリレー第52回】

 

はじめに

 

皆さん、はじめまして。北海道開拓記念館学芸員の三浦です。
私は、主に、江戸時代から明治・大正期にかけての“古文書”を、調査・研究の対象としています。手紙や日記、証文類といった私的な“古文書”から、松前藩や開拓使、北海道庁が作成した公的な“古文書”まで、その種類はさまざまです。
そのような“古文書”からは、“古文書”が作られた地域における出来事や、“古文書”を記した人物の意見や感想などを読み取ることが出来ます。その意味で、“古文書”は、その地域の歴史や文化を理解する上で、とても貴重な史料になると言えます。
北海道内にも、道内それぞれの地域の歴史や文化を物語る、さまざまな“古文書”が残されています。しかし、道内で“古文書”の調査をしていると、しばしば、そのような意味での“古文書”とは少し性格の異なる“古文書”が残されていることに気が付きます。
では、この「少し性格の異なる“古文書”」とは、どのような“古文書”のことなのでしょうか?

 

“移住”してきた“古文書”が語ること

 

その一例として、北海道開拓記念館が所蔵する、「安斎」という家にゆかりの“古文書”(以下、安斎家文書と表記)を紹介したいと思います。安斎家は、代々、仙台藩の重臣であった片倉家に仕えた武士の家柄です。仙台藩主から見れば、家臣の家臣、つまりは「陪臣」という位置付けです。安斎家の由緒書によると、安斎家の元祖満右衛門義守は、独眼竜政宗として有名な仙台藩の藩祖伊達政宗の側近であった片倉景綱と、戦国時代の天正4年(1576)に君臣の契りを交わしています。そして、たびたび、片倉景綱とともに、伊達政宗による合戦に出陣したことが知られます。江戸時代になってからも、安斎家は、引き続き、仙台藩白石領の城主となった片倉家に家臣として仕えました。しかし、明治維新の際、戊辰戦争で仙台藩が新政府軍に敗れ、大幅に領地を削減されると、その他の片倉家の家臣とともに、北海道への移住を余儀なくされました。明治4年(1871)、安斎家の第11代惣十郎真睦の代のことで、移住地は郷里にちなんで「白石村」(現札幌市白石区)と名付けられた地域でした。

安斎家文書には、例えば、次のような“古文書”が含まれています。

 

安斎義守宛ての「伊達政宗黒印状」(北海道開拓記念館所蔵)

安斎義守宛ての「伊達政宗黒印状」(北海道開拓記念館所蔵)

 

これは、伊達政宗が安斎義守に与えた“古文書”です。慶長17年(1612)2月10日という日付の下に伊達政宗の黒い印章が押されていることから、「伊達政宗黒印状」と呼ばれています。安斎義守は、少なくとも慶長13年(1608)から慶長18年(1615)にかけて、片倉景綱の家臣という立場ながら、伊達政宗から仙台藩領内の金山の管理を任せられており、この黒印状は、その役務に伴う権利を保障した文書と言えます。また、これ以外にも、安斎家文書には、直接の主君であった片倉家が歴代の安斎家当主に与えた「知行宛行状」(主君が家臣に与えた知行(武士の給料)の権利を保障した文書)が含まれています。

これらの“古文書”に記されている内容は、北海道の歴史とは全く関係がありません。むしろ、仙台藩に関わる歴史の一コマを物語る史料と言えます。しかし、安斎家文書は、北海道開拓記念館に寄贈されるまで、札幌在住の安斎家の子孫宅に伝えられてきました。なぜ、このような“古文書”が道内に伝えられてきたのでしょうか?

その答えは、“北海道移住”という歴史的な出来事と深い関わりがあると考えられます。戊辰戦争で敗れた仙台藩は、新政府によって大幅に領地を削減されました。そして、安斎家のような仙台藩の陪臣は、知行を召し上げられて、武士としての身分を奪われることになりました。そのような状況の下、先祖代々の土地を離れ、生活のために北海道ヘの移住を余儀なくされたのです。おそらく、安斎家文書は、安斎家の第11代真睦が明治4年(1871)に北海道へ移住する際に携えてきたと推測されます。「伊達政宗黒印状」や「知行宛行状」は、安斎家にとって、戦国時代以来の武士としての由緒を証明してくれる大切な“古文書”です。そのような“古文書”を携えて移住し、かつ保管し続けるという行為には、“先祖代々の土地を離れ、北海道への移住を余儀なくされたが、自らの家は、戦国時代以来、片倉家に仕えてきた由緒ある武士の家柄なのだ”という想い、つまりは、自らの由緒に対する“誇り”を移住先でも失わないで保ち続けていくという決意が反映されていたのではないかと考えられるのです。その意味で、安斎家文書に含まれている「伊達政宗黒印状」や「知行宛行状」は、内容的には北海道の歴史や文化と無関係でも、そのような文書が道内に伝えられてきたということ自体において、“北海道移住”という北海道の歴史の一コマを雄弁に物語っていると言えるのではないでしょうか。

 

おわりに

 

このコラムで紹介した安斎家文書のような“移住”してきた“古文書”は、内容的には北海道の歴史や文化を直接物語る史料ではないせいか、これまで、まとまった形で調査・研究は行われてこなかったように思います。しかしながら、その存在自体において“北海道移住”という歴史の一コマを物語る、“移住”してきた“古文書”は、もっと注目されても良い、北海道の貴重な文化財です。果たして、道内の博物館や図書館、さらには個人宅などに、どれくらいの“移住”してきた“古文書”が残されているのか、そして、それぞれの“古文書”はどのような“歴史”を物語っているのか、今後、勉強を深めていきたいと考えています。

もし何か情報をお持ちの方がおられましたら、ご一報いただけますとうれしいです。

 

<北海道開拓記念館 三浦泰之>