「ニシン釜」ってナニ?
北海道の沿岸部(特に日本海側)にある博物館・資料館の多くには、「ニシン釜」と呼ばれる大きな鉄釜が展示されています。何に使われた道具でしょう?「お風呂?」、「たくさんのご飯を炊く釜?」、「魚を飼う水槽?」……。正解は、「ニシン粕」という肥料を作るために使われた、大きな鉄釜です。ニシンという魚を、一度で大量に煮るために、とても大きな鉄釜が必要でした。
北海道を代表する魚、ニシン
明治期の北海道産業を支えていたのは、漁業・水産業。当時の統計資料を見ていると、ニシン、サケ、マス、コンブで全漁獲金高のおよそ90%を占めています。そのなかでも、ニシンだけで全漁獲金高の70%前後になるほどで、文字通り北海道を代表する魚でした。もちろん、食用として「身欠きニシン」や「塩カズノコ」も生産されましたが、それ以上に、大量に獲れたニシンは肥料(しめ粕、いわゆる「ニシン粕」)に加工されて、北陸、大阪、徳島など「内地」方面に出荷されました。米や綿花、藍などを栽培する道外の農業地域で、質の良い肥料を大量に必要としていたからです。豊富な資源量を背景に、ニシン粕の需用と供給のバランスをうまくとりながら、北海道のニシン漁場経営は展開します。
ニシン粕製造
それでは、ニシン粕はどのように製造するのでしょう? 大きな鉄釜に生ニシンを数百から約一千尾入れ、充分煮ます。煮えたぎる鉄釜から煮ニシンを圧搾器に移してフタを置き、上から圧力を加えてフタを押し下げると、圧搾器のすき間から水分・油がしみ出てきます。煮ニシンを圧搾する際に生じる油分も、魚油として商品になるので、捨てずにためておきます。こうして、圧搾が終わると、内部に残った粕塊を取り出します。あとは、塊を砕いて充分に乾燥させれば、ニシン粕の完成です。
ニシン釜のふるさとは、どこ?
ところで、このニシン釜にはナゾがあります。それは、ニシン釜の多くは北海道で製造されたものではないのです。ニシン粕の製造には必ず大きな鉄釜が必要でしたから、ニシン漁場の経営者は本州のどこかから鉄釜を買っていたのです。しかも、ニシン釜は消耗品なので、定期的に買いそろえておく必要がありました。 では、ニシン釜のふるさとは、どこでしょう? ヒントは下の写真をご覧ください。冒頭で紹介したニシン釜です。
このニシン釜は、直径1,390mm×深さ715mm。釜の縁に「高岡 カネソウ(┐に宗)特製 四六」の銘が施されています。そう、ニシン釜のふるさとは、富山県高岡市でした。「カネソウ」は屋号で、このニシン釜を製造した家(工場)の印。「四六」は鉄釜の大きさで、直径が4尺6寸=約1,390mmを意味します。このニシン釜は、札幌市の中心部にある北海道庁赤れんが庁舎2階の「北海道の歴史ギャラリー」でご覧いただけます。
富山県高岡地方の鉄釜製造
高岡市は、江戸時代から続く鋳物の町。調査でお世話になったのは、旧富田鋳造所(旧富田宗左右衛門商店)です。この鋳造所は、高岡市を流れる千保川の左岸、金屋町という地区で昭和50年代の中頃まで操業をしていました。屋号は「カネソウ(┐に宗)」。写真で紹介したニシン釜の製造元で、北海道へ鉄釜を出荷していた高岡を代表する鋳造所のひとつでした。
富田鋳造所で製造された鉄釜などの取引を探る上で興味深いのが、大正末期~昭和初期に作成された帳簿です(高岡市内個人蔵)。全部で192冊現存し、表紙には、顧客名(個人名、商店名)、所在地、印(屋号)が記されています。帳簿には、取引年月日、商品名、大きさ、個数、単価、売上金額、荷作料金、返品、入金、値引きなどが記録されています。 富田鋳造所の主力商品はニシン釜のような大型鉄釜でした。この帳簿からは、ニシン釜だけでなく、ハッカ製造用としての「ハッカ釜」、ヨード精製用の「ヨード釜」として大きな鉄釜を取引していること、一般家庭用の鉄釜(飯炊き釜、風呂釜)なども多数扱っていることもわかりました。しかも、取引先が北海道日本海側だけでなく、オホーツク・太平洋側、内陸部、さらには樺太との販売ネットワークをもっていたことも判明しました。
おわりに
ニシン釜に代表される高岡産の鉄釜は、天保年間(1830~44)には喜多万右衛門が北海道に販路を開いたといわれています。高岡から北海道へのニシン釜の販売は、昭和30年代まで続きました。 ニシン粕、ニシン釜を事例に、北海道・樺太と「内地」とのモノのつながりを紹介しました。今では過去の物語となってしまったニシン漁業・ニシン粕製造の歴史をより深く理解するためには、北海道と「内地」の双方における調査成果をこれまで以上に蓄積していくことが不可欠です。博物館の中で、外で、新しい歴史資料を探し求めて歩き回っています。
<北海道開拓記念館 会田理人>