イトウ
学名: Parahucho perryi 英名: Sakhalin taimen
イトウは北海道、択捉島、国後島、ロシア連邦サハリン島や沿海州などの河川や湖沼に生息する日本国内最大の淡水魚である。また、野ねずみやヘビ、カエルなども呑み込んで食べてしまうという悪食な魚としても有名である。
5年ほど前までイトウの学名はHucho perryi でほぼ統一されていたが、近年、急速に進歩したDNA分析の結果、他のイトウ属(Hucho)の魚類とは属レベルで明らかに異なることが示された。その結果最近では、イトウ1種のみで構成する独立したParahucho (パラフーチョ)属であると考えられるようになりつつある。
「朝、アミ、見に行ったら、タタミ一枚くらいの、でっかいイトウがかかっててよう~。」
2008年、学生時代の私がイトウの分布調査(聞き取り調査)をしていた時、道東のとある湖で60年前から漁業をやっている80代になろうかという年配の漁師さんが語ってくれた話である。(結局、直後にその魚は網のかかりがわるくそのまま尾びれをくゆらせて逃げてしまったという・・・。)
この手の巨大イトウにまつわる目撃情報は北海道だけにとどまらず、ロシア連邦のサハリンにおいても何度か耳にした。サハリン島は近年急速に開発が進んでいるものの、現在もなお、原始の色濃い自然が多く残されている。特に北東海岸を流れる河川の多くは広大な汽水湖に流入する地形となっており、その汽水湖の環境が巨大イトウを育み、現在もなお、全長1.8mほどのイトウが実際に生息しているというのだ(地元漁師談)。
あくなき大物へのこだわり
概して、世の中の多くの釣り師は小魚よりも大きな魚を好み、いつかは自分も大きな魚を釣ってみたいと願っているものである。そんな大物狙いの釣り師にとって、国内最大の淡水魚・イトウは唾涎のターゲットといえる。それはロシア人とて例外ではなく、河川生態系の頂点に君臨するイトウは川の王者というイメージが強く、北海道同様に大物釣りの対象魚としてとても人気があるようだ。そんな大物釣り師たちの一番の興味といえば当然、「どれくらいの大きさの魚を釣ったかどうか」であり、そこに異常なまでのこだわりを見せる。そして、そのこだわりは酒の席にそのまま持ち込まれ、格好の酒(ウオッカ)の肴となるのである。
両手を縛って釣り談義!?
数年前、北サハリンのあるロシア人釣り師の家に泊まらせていただき、ロシア料理やウオッカをごちそうになった。例によって、ウオッカを酌み交わし、大物イトウ談義に花が咲いた。宴もたけなわとなった頃、ロシア人釣り師が以前こんな大きなイトウを釣ったと両手を広げて(得意気に)示したその大きさは1m弱くらいであった。しかし、30分後に再び同じ話になった時、不思議なことにその大きさは1.5m(小柄な成人女性なみ)ほどであった。その時、ふと、昔聞いたある言葉が脳裏をよぎった。「釣りの話をするときは両手を縛っておけ。」ロシアの有名なことわざである。なぜ両手を縛る必要があるのか?釣り師のホラ話には際限がなく、実際はそれほど大きくない魚でも、ウオッカを飲み、身振り手振りで大きさを伝えるにつれ、次第に誇張され、いつしか魚が大きく成長してしまうというたとえである。
国内最大の記録と巨大魚の存在
国内最大の淡水魚といわれるイトウだが、記録として残る最大のものはなんといっても、1937年に十勝川千代田堰堤で捕獲された全長2.15mの個体であろう。ただし、いささか気になる点もある。というのは、この個体の体重は7貫目(約26kg)と記載されており、全長2m超えるイトウであれば体重100kg近くはあるはずなのだが、記録として残っている体重はあまりにも小さく、ほとんど日干し同然と言っていいほど痩せた不自然な魚なのである。さらに、とびぬけて大きなその個体以外には2mはおろか、それに近い確かな記録はほとんど見当たらず、1.5mという個体の記録も写真や魚拓、はく製といったその証拠となるものがしっかりとある訳ではないのだ。はく製や写真といったしっかりとした証拠が揃っているのはせいぜい1.3m台あたりからである。このように考えると、現在の北海道で実際に生息しているのはせいぜい全長1.3m台までで、飛びぬけて大きい個体であっても全長1.4m台あたりが上限ではないかという気がしてくる・・・。しかし一方で、イトウの分布情報を調べる中で、私はこれまで何度か1.5m以上のイトウを目撃したことがあるという人物に出会ってきた。彼らの話は実に真に迫っており、とてもホラ話と一言でかたつけられない内容のものが確かにあり、その存在を私に信じ込ませるだけの説得力をもっているのだ。短い生涯で(4,5年)の一生を終えるサケ(シロザケ)とはことなり、イトウは同じサケ科でありながら、サケを大幅に上回る30年余りもの長い生涯の中でゆっくりと成長を続け、次第に巨大化する。この種の生理的・生態的な特性を考えると全長1.5m~1.7mの巨大魚が存在しても不思議ではないと思えてくる。もしかしたら、まだ広大な原始の自然が残されているサハリンやロシア沿海州あたりには、そんな巨大魚が人知れずいるのかもしれない・・・。
アイヌ伝説
そのほか、巨大魚伝説の極め付きとしてはアイヌの民間伝承が挙げられる。イトウにまつわるものはいくつかあるが、そのひとつを下記に紹介する。
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・・・昔、狩人が大熊を見つけて跡を追ったところ、熊は然別湖に飛び込んで泳ぎだした。ところが、湖の中腹まで行くとぶくぶくと沈んで見えなくなってしまったので、船を漕ぎ出して行ってみると、体の長さが四、五十メートルもあるイワン・オンネチェップ・カムイ(六倍の老体魚神の意)というイトウの主が大熊を呑み込んで咽頭につまらせ、熊はイトウの口から前脚を少しのぞかせて死んでいた・・・。
(更科源蔵/更科光著「コタン生物記Ⅱ野獣・海獣・魚族篇」より抜粋)
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さすがに、全長40、50メートルまでとなると、いかに巨大魚の魅力に憑りつかれた私でも、生物学的にありえないと冷静に判断することができる。しかしまた一方、その巨大魚伝説が生まれた背景に想像をめぐらすと、とても親近感を覚えるのである。なぜなら、おそらくその伝説の始まりは我々の酒の席の釣り談義とそう変わらないものであったと思うから・・・。
<釧路市立博物館 野本和宏>
次回は、小樽市総合博物館の山本さんの投稿です。お楽しみに!