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学芸員の本棚からオススメの一冊《謎の十字架》

 加藤さんに続いて、2022年1月20日のオンライン研修会でオススメした本をこちらにも掲載します。

 私が紹介したのはトマス・ホーヴィング作の『謎の十字架』です。(田中靖訳 文藝春秋 1986 / Thomas Hoving, King of the Confessors, 1981)

謎の十字架書影
謎の十字架とクローディアの秘密

 サブタイトルにメトロポリタン美術館はいかにして世紀の秘宝を得たかとついています。

 ご存じの方も多いと思いますが、著者のトマス・ホーヴィング氏は若干35歳にしてメトロポリタン美術家の館長を務めた方です。博物館の前面に展覧会のバナーを下げるとか、ミュージアムショップを充実させるとか、今博物館であたりまえのようにおこなわれていることの多くにホーヴィング氏の貢献があります。

 さて、1955年の春にこちらの表紙にある十字架が突然世にあらわれ、世界中の名だたる美術館が争奪戦を繰り広げました。本書ではそこでメトロポリタン美術館がいかにして勝利したのかの経緯が紹介され、その際キュレーターとしてメトロポリタン美術館に雇用されたばかりのホーヴィング氏が大活躍したという内容でもあります。

 この十字架が本物なのかにせものなのか。

 十字架に彫られているラテン語の名文やモチーフの研究。

 一体この十字架はどこからあらわれたのか。

 そして

 現在の持ち主の素性はどうなのか。

 高額な収集費をどのように工面するのか。

 他館に収集されないようにするための工作。

 さらにナチスの略奪美術品返還へと話題は広がります。

 この1点を収集するために、文字通り世界中をホーヴィング氏はとびまわります。

 私がこの本を初めて読んだのは大学生のときで、いま学芸員をしていても、本書の影響を受けているなと思うことがたくさんあります。例えばホーヴィング氏あるいはメトロポリタン美術館の収集への情熱からは、良い資料をもっている博物館が強いという価値観が植え付けられました。キュレーターの感性への考え方も本書から影響を受けているように思います。また資料を研究するだけではなく、その記録が美術館に保管されているということが当たり前であるということ、そうした記録をホーヴィング氏は駆使して調査をすすめます。

 さて、この十字架を収集するのかしないのか、何処の博物館でもあるように、メトロポリタン美術館でも収集委員会(評議員会)が開かれます。

 さまざまに調査した結果、制作地をイギリスとつきとめ、メトロポリタン美術館で収集すべきと考えたホーヴィング氏は評議員を説得するプレゼンテーションを効果的にするために、十字架の模型を作ることにします。他館を出し抜くことも必要ですが、他のキュレーターも欲しいものがあるわけですから、まずは同僚たちを押しのけなければならないのです。(「模型を美術館の木工作業室に注文して」、とあるのを読むと、ああ、メトロポリタン美術館には木工作業室があるんだなと思ったりします。)

 ホーヴィング氏はただぽんと模型を出すのではなく赤いビロードに包んで、評議員によりよくみてもらえるような演出も行っています。このあたりに、後にメトロポリタンを大改革した手腕の片鱗がみてとれます。

 ちなみにこの十字架の金額は60万ドル。1ドル360円の頃ですから、日本円にすると2億1600万円ということになるでしょうか。これが全て寄付金であることに、当時のアメリカの状況が表れてもいます。

 本書では十字架の素材は象牙と訳されていますが、原書ではセイウチ牙です。年代として12世紀が考えられており、12世紀にヨーロッパ人がどのようにしてセイウチの牙を入手したのかということも、セイウチ牙製品を多く所蔵している当館としては気になることです。

 ところでもう1冊紹介したかったのが『クローディアの秘密』(E.L.カニグズバーグ作、松永ふみ子訳 岩波書店 1969 / E.L.Konigsburg, From the Mixed-up Files of Mrs. Basil E. Frankweiler, 1967)という児童書です。こちらは家で不当に扱われたと思った女の子が、家出先にメトロポリタン美術館を選ぶというお話で、子どもの頃から何度となく読んでいます。どなたのなかにも、はっきりとした、あるいは漠然としたミュージアム像というのがあるかと思いますが、私のなかのミュージアム像というのは、クローディアの秘密と謎の十字架があわさったものでできているようです。

 セイウチ牙製十字架の全面には約92人の人物と98の句が精緻にほどこされており、キリスト教の聖書から引用された場面が比類ないテクニックで彫刻され、一級品であることは数多くの美術館がほしがったことからも証明されています。ただしラテン語の句のなかには明らかにユダヤ人に対しての憎悪を表したものがあるそうです。この十字架は当時(12世紀頃)のイギリスのユダヤ人に対する態度を示したものでもあり、この資料を展示することの意味についても考えさせられます。

 メトロポリタン美術館のサイトで確認しましたら、この資料は現在も展示されているようです。本書の帯には この本を読むとつぶやきたくなる「いつの日か、必ず実物を見てやる」と。とあります。私も「いつの日か、必ず実物をみよう」と思って30年以上がすぎましたので、コロナが収束した暁にはと夢見ています。

<北海道立北方民族博物館 笹倉いる美>